く》めていつた。袂《たもと》で口《くち》を抑《おさ》へて女房等《にようばうら》は笑《わらひ》を殺《ころ》した。兼《かね》博勞《ばくらう》は態《わざ》と笑《わらひ》を嚥《の》んで再《ふたゝ》び板《いた》の間《ま》に胡坐《あぐら》を掻《か》いた。
勘次《かんじ》は小《ちひ》さな時分《じぶん》から侮《あなど》られて能《よ》く泣《な》かされた。彼《かれ》は恐《おそ》ろしい泣蟲《なきむし》であつた。彼《かれ》は何時《いつ》の間《ま》にか燗鍋《かんなべ》といふ綽名《あだな》を附《つ》けられた。彼《かれ》は心《こゝろ》に幾《いく》ら其《そ》れを嫌《きら》つたか知《し》れない。卅|越《こ》えて四十に成《な》つても彼《かれ》は鍋《なべ》といふのが酷《ひど》く厭《いや》であつた。村落《むら》ではそれを知《し》らぬ者《もの》はない。或《ある》時《とき》惡戯好《いたづらずき》な兼《かね》博勞《ばくらう》が勘次《かんじ》の刈《かつ》て居《ゐ》る稻《いね》を、此《これ》は何《なん》だえと聞《き》いた。態《わざ》と聞《き》いたのであつた。其《そ》れは鍋割《なべわ》れとも、それから芒《のげ》が白《しろ》いので白芒《しらのげ》とも云《い》ふのであつたが勘次《かんじ》は
「此《これ》は白坊主《しろばうず》」とそつけなくいつた。彼《かれ》は鍋《なべ》といふのが厭《いや》でさういつたのである。兼《かね》博勞《ばくらう》はうまく或《ある》物《もの》を攫《とら》へた樣《やう》に得意《とくい》に成《な》つて村落中《むらぢゆう》へ響《ひゞ》かせた。口《くち》の惡《わる》い百姓等《ひやくしやうら》は勘次《かんじ》がおつぎを連《つ》れて田《た》へ出《で》て居《ゐ》るのを見《み》て
「白坊主等《しろばうずら》夫婦《ふうふ》して耕《うな》つてら」抔《など》と放言《はうげん》することすらあるのであつた。
茶碗《ちやわん》には一|杯《ぱい》づつ酒《さけ》が注《つ》がれた。一|同《どう》はしをらしく茶碗《ちやわん》を口《くち》に當《あ》てた。
「恁《こ》んな物《もの》でよけりや、夥多《みつしら》やつておくんなせえ、まあだ後《あと》にも有《あ》りやんすから」内《うち》の女房《にようばう》は鹽《しほ》で煮《に》たかと思《おも》ふ樣《やう》な白《しろ》つぽい馬鈴薯《じやがたらいも》の大《おほ》きな皿《さら》を膳《ぜん》へ乘《の》せて二處《ふたとこ》へ置《お》いた。忽《たちま》ち一|杯《ぱい》を干《ほ》して獻酬《とりやり》が始《はじ》まつた。注《つ》がれるものは茶碗《ちやわん》の手《て》を擧《あ》げて相手《あひて》が持《もつ》てる徳利《とくり》の口《くち》へ手《て》を掛《か》けて酒《さけ》の滾《こぼ》れるのを防《ふせ》いだ。酒《さけ》が始《はじ》まつてから皆《みな》が妙《めう》に鹿爪《しかつめ》らしく居《ゐ》ずまひを改《あらた》めた。
「さあ、何卒《どうぞ》ずん/\干《ほ》しておくんなせえね」亭主《ていしゆ》は促《うなが》した。
「はい」挨拶《あいさつ》が又《また》口々《くち/″\》に出《で》た。
此《こ》の頃《ごろ》では不廉《ふれん》な酒《さけ》は容易《ようい》に席上《せきじやう》へは運《はこ》ばれなく成《な》つて居《ゐ》たので隨《したが》つて他人《たにん》の買《か》つたのでも皆《みな》控《ひか》へ目《め》にする樣《やう》に成《な》つて居《ゐ》た。南《みなみ》では養蠶《やうさん》の結果《けつくわ》が好《よ》かつたのと少《すこ》しばかり餘《あま》つた桑《くは》が意外《いぐわい》な相場《さうば》で飛《と》んだのとで、一|圓《ゑん》ばかりの酒《さけ》を奮發《ふんぱつ》したのであつた。其《そ》の晩《ばん》の料理《れうり》に使《つか》ふ醤油《しやうゆ》が要《い》るので兩方《りやうはう》を兼《か》ねて亭主《ていしゆ》は晝餐休《ひるやす》みの時刻《じこく》に天秤《てんびん》擔《かつ》いで鬼怒川《きぬがは》を渡《わた》つた。村落《むら》の店《みせ》では買《か》はずに直接《ちよくせつ》酒藏《さかぐら》へ行《い》つたので酒《さけ》は白鳥徳利《はくてうどくり》の肩《かた》まで屆《とゞ》いて居《ゐ》た。
各自《かくじ》の平生《へいぜい》渇《かつ》して居《ゐ》る口《くち》には酒《さけ》は非常《ひじやう》に佳味《うま》く感《かん》ずると共《とも》に、其《そ》の痲痺《まひ》する力《ちから》に對《たい》する抵抗力《ていかうりよく》が衰《おとろ》へて居《ゐ》るので徳利《とくり》が一|本《ぽん》づつ倒《たふ》されて次《つき》の徳利《とくり》に手《て》が掛《かゝ》つたと思《おも》ふ頃《ころ》板《いた》の間《ま》では一|同《どう》のたしなみが亂《みだ》れて威勢《ゐせい》が出《で》た。
「おめえ、さういに自分《じぶん》の處《と
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