《ゐ》た。徳利《とくり》が三四|本《ほん》膳《ぜん》の前《まへ》に運《はこ》ばれた。
「お蔭《かげ》でどうも捗《はか》行《ゆ》きあんした。どうぞゆつくり行《や》つておくんなせえ」亭主《ていしゆ》は改《あらた》まつて挨拶《あいさつ》した。
「はい」と一|同《どう》が時儀《じぎ》をした。各自《かくじ》の膳《ぜん》の隅《すみ》へ一つ宛《づゝ》渡《わた》された茶呑茶碗《ちやのみぢやわん》へ酒《さけ》が注《つ》がれようとした時《とき》
「あれ待《ま》つてゝくんねえか」と内《うち》の女房《にようばう》が慌《あわ》てゝいつた。
「おとつゝあん、お竈樣《かまさま》忘《わす》れたつけべな」女房《にようばう》は竈《かまど》から飯《めし》の釜《かま》を卸《おろ》して布巾《ふきん》を手《て》にした儘《まゝ》いつた。
「さうだつけな、ほんに」亭主《ていしゆ》はいきなり一|本《ぽん》の徳利《とくり》を手《て》にして土間《どま》へおりた。竈《かまど》の上《うへ》の煤《すゝ》けた小《ちひ》さな神棚《かみだな》へは田《た》から提《さ》げて來《き》た一|把《は》の苗《なへ》が載《の》せてあつた。彼《かれ》は其《その》苗束《なへたば》へ徳利《とくり》から少《すこ》し酒《さけ》を注《つ》いだ。
「酒《さけ》そつちの方《はう》へたんと掛《か》けねえで貰《も》れえてえな」兼《かね》博勞《ばくらう》はけろりとした容子《ようす》をして戯談《じやうだん》をいつた。
「酒《さけ》飮《の》む者《も》な、さうだに惜《を》しいもんだんべか」おつぎはこつそりいつた。
「そんだつて酒《さけ》つちや人《ひと》の口《くち》さ入《せ》える樣《やう》に出來《でき》てんだから、それ證據《しようこ》にや俺《お》らが口《くち》さ入《せ》えりやすぐ利《き》くから見《み》ろえ」兼《かね》博勞《ばくらう》はいつた。亭主《ていしゆ》は又《また》苗束《なへたば》へ香煎《かうせん》を少《すこ》し振《ふ》り掛《か》けた。それは稻《いね》の花《はな》に模擬《なぞら》つたので、稻《いね》の花《はな》が一|杯《ぱい》に開《ひら》く樣《やう》との縁起《えんぎ》であつた。兼《かね》博勞《ばくらう》は其《そ》れを見《み》て急《きふ》に土間《どま》へ下《お》りて行《い》つた。
「どうれ、おめえ等《ら》饂飩粉《うどんこな》少《ちつ》と持《も》つて來《き》て見《み》せえ、一ツ爪尻《つまじり》でえゝんだ、おゝえ持《も》つて來《こ》うな、おつぎでもえゝや、よう」と兼《かね》博勞《ばくらう》は促《うなが》した。
「どうしたもんだ、大威張《おほえばり》して」おつぎは呟《つぶや》きながら内《うち》の女房《にようばう》に聞《き》いて小麥粉《こむぎこ》を一|捉《つか》み出《だ》して遣《や》つた。
「さうら此《こ》れ掛《か》けて、此《こ》れが晩稻《おくいね》の花《はな》だ」兼《かね》博勞《ばくらう》は手《て》にした小麥粉《こむぎこ》を悉《こと/″\》く掛《か》けて畢《しま》つた。苗束《なへたば》は少《すこ》し白《しろ》く成《な》つた。
「何處《どこ》にもさういに掛《か》けるもな有《あ》んめえな」女房《にようばう》の一人《ひとり》が見《み》て居《ゐ》ていつた。
「俺《お》ら晩稻《おくいね》作《つく》んだから、役場《やくば》の奴等《やつら》作《つく》つちやなんねえなんちつたつて、俺《お》ら見《み》てえな、うつかりすつと乳《ちゝ》ツ岸《ぎし》までへえるやうな深《ふか》ん坊《ばう》の冷《ひ》えつ處《とこ》ぢやどうしたつて晩稻《おくいね》でなくつちや穫《と》れるもんぢやねえな、それから俺《お》れ役場《やくば》で役人《やくにん》が講釋《かうしやく》すつから深《ふか》ん坊《ばう》ぢや斯《か》うだつち噺《はなし》したら、はつきり惡《わ》りいたあ云《ゆ》はねえんだから、夫《それ》から俺《お》れ糞《くそ》攫《つか》んで見《み》ねえ奴《やつ》ぢや駄目《だめ》だつちんだ」彼《かれ》は笑《わら》ひながら獨《ひと》り饒舌《しやべ》つた。
「根性《こんじやう》捩《ねぢ》れてつからだあ、晩稻《おくいね》は作《つく》んなつちのに」女房《にようばう》の一人《ひとり》が又《また》いつた。
「俺《お》れか、いやどうも捩《ねぢ》れてんにもなんにも」兼《かね》博勞《ばくらう》はいつて
「そうれ見《み》ろえ、稻《いね》へ白《しれ》え花《はな》が咲《さ》えたぞ、白坊主《しろばうず》の花《はな》だこりや」彼《かれ》は手《て》に附《つ》いた粉《こ》を能《よ》く叩《たゝ》いた。
「厭《や》だよ、白坊主《しろばうず》ツち稻《いね》はあんめえな」女房《にようばう》が又《また》いつた。
「そんでも俺《お》ら勘次《かんじ》さんに聞《き》いたぞ」彼《かれ》は少《すこ》し首《くび》をすくめながら聲《こゑ》を低《ひ
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