ゐ》た。桑《くは》の間《あひだ》には馬鈴薯《じやがいも》が茂《しげ》つて花《はな》を持《も》つて居《ゐ》た。南《みなみ》の家《いへ》では少《すこ》しばかり養蠶《やうさん》をしたので百姓《ひやくしやう》の仕事《しごと》が凡《すべ》て手後《ておく》れに成《な》つたのであつた。村落《むら》の大抵《たいてい》が田植《たうゑ》を畢《をは》り掛《か》けたので慌《あわ》てゝ大勢《おほぜい》の手《て》を傭《やと》うた。其《そ》の日《ひ》は晴《は》れて心持《こゝろもち》がよかつたのと、一|同《どう》が非常《ひじやう》な奮發《ふんぱつ》をしたのとで仕事《しごと》は日《ひ》の高《たか》い内《うち》に濟《す》んだ。南《みなみ》の女房《にようばう》は仕事《しごと》の見極《みきは》めがついたのでおつぎを連《つ》れて、其《その》晩《ばん》の惣菜《そうざい》の用意《ようい》をする爲《ため》に一|足《あし》先《さき》へ田《た》から歸《かへ》つた。女房《にようばう》は忙《いそが》しい思《おも》ひをしながら麥《むぎ》を熬《い》つて香煎《かうせん》も篩《ふる》つて置《お》いた。
 田植《たうゑ》の同勢《どうぜい》は股引《もゝひき》穿《は》いた儘《まゝ》泥《どろ》の足《あし》をずつと堀《ほり》の水《みづ》に立《た》てゝ、股引《もゝひき》の紺地《こんぢ》がはつきりと成《な》るまで兩手《りやうて》でごし/\と扱《しご》いた。溶《と》けた泥《どろ》が煙《けぶり》の如《ごと》く水《みづ》を濁《にご》らしてずん/\と流《なが》される。さうしてから其《そ》の股引《もゝひき》を脱《ぬ》いでざぶ/\と洗《あら》ふ者《もの》も有《あ》つた。彼等《かれら》が歸《かへ》つて家《いへ》の内《うち》は急《きふ》にがや/\と賑《にぎや》かに成《な》つた。裏戸口《うらとぐち》の※[#「柿」の正字、第3水準1−85−57]《かき》の木《き》の下《した》に据《す》ゑられた風呂《ふろ》には牛《うし》が舌《した》を出《だ》して鼻《はな》を舐《な》めづつて居《ゐ》る樣《やう》な焔《ほのほ》が煙《けぶり》と共《とも》にべろ/\と立《た》つて燻《いぶ》りつゝ燃《も》えて居《ゐ》る。傭《やと》はれて來《き》た女房等《にようばうら》の一人《ひとり》が蓋《ふた》をとつてがら/\と掻《か》き廻《まは》して、それから復《ま》た火吹竹《ひふきだけ》でふう/\と吹《ふ》いた。焔《ほのほ》の赤《あか》い舌《した》がべろ/\と長《なが》く立《た》つた。
 再《ふたゝ》び蓋《ふた》をとつた時《とき》には掃除《さうぢ》の足《た》らぬ風呂桶《ふろをけ》のなかには前夜《ぜんや》の垢《あか》が一|杯《ぱい》に浮《う》いて居《ゐ》た。其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》ことには關《かま》はずに田植《たうゑ》の同勢《どうぜい》はずん/\と這入《はひ》つた。彼等《かれら》は殆《ほと》んど只《たゞ》手拭《てぬぐひ》でぼちや/\と身體《からだ》をこすつて出《で》た。足《あし》の爪先《つまさき》に詰《つ》まつた泥《どろ》を落《おと》すことさへ仕《し》なかつた。
「燻《けぶ》つてえのそつちへおん出《だ》さなくつちや仕《し》やうねえや」風呂《ふろ》から出《で》た儘《まゝ》拭《ぬぐ》ひもせぬ足《あし》に下駄《げた》を穿《は》いて裸《はだか》の臀《しり》を他人《たにん》に向《む》けて立《た》つた一|人《にん》が後《うしろ》を顧《かへり》みていつた。
「なあに管《かま》あねえ」後《あと》から目《め》を蹙《しか》めながら一人《ひとり》が首筋《くびすぢ》まで沈《しづ》んだ。それから風呂桶《ふろをけ》へ腰《こし》を掛《か》けてごし/\と洗《あら》ひながら
「此《こ》りや燻《けぶ》つてえ」と復《また》沈《しづ》んだ儘《まゝ》ごし/\と垢《あか》を落《おと》して居《ゐ》たが
「あゝ善《え》え處《とこ》だ、よう、おつぎ、少《ちつ》と此處《ここ》まで來《き》てくんねえか」といつた。彼《かれ》は百姓《ひやくしやう》の間《あひだ》には馬《うま》を曳《ひ》いて歩《ある》く村落《むら》の博勞《ばくらう》であつた。
「どうしたもんだんべ、兼《かね》さん等《ら》自分《じぶん》で這入《へえ》んのに燻《けむ》つたけりや、おん出《だ》してからへえつたら善《よ》かんべなあ、それに怎的《どう》したもんだ一同《みんな》居《ゐ》て、水汲《みずく》みに來《き》たものなんぞ使《つか》あねえたつてよかんべなあ」おつぎは輕《かる》く窘《たしな》める樣《やう》にいつて二つの手桶《てをけ》をそつと置《お》いて、燻《いぶ》つて居《ゐ》る薪《たきゞ》を出《だ》して遣《や》つた。
「おつぎに掻《か》ん出《だ》して貰《もら》あんでなくつちや厭《や》だつちから俺《お》
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