く見《み》えて居《ゐ》た。おつぎは耳《みゝ》に響《ひゞ》く太鼓《たいこ》の音《おと》を聞《き》きながら、まだ縺《ほつ》れぬ髮《かみ》を少《すこ》し首《くび》を傾《かたむ》けつゝ兩方《りやうはう》の拇指《おやゆび》の股《また》で代《かは》り代《がは》りに髱《たぼ》を輕《かる》く後《うしろ》へ扱《こ》いた。おつぎは汗《あせ》を拭《ぬぐ》つてさつぱりとした身體《からだ》へ復《ま》た浴衣《ゆかた》を着《き》た。
「おとつゝあ、あの太鼓《たいこ》は何處《どこ》だんべ」おつぎは帶《おび》の端《はし》を氣《き》にして後《うしろ》へ手《て》を廻《まは》しながら聞《き》いた。
「どれ、あの遠《とほ》くのがゝ、分《わか》るもんか何處《どこ》だか」勘次《かんじ》は燃《も》えた處《ところ》だけがつくりと減《へ》つた蚊燻《かいぶ》しの青草《あをくさ》に目《め》を注《そゝ》ぎながら氣乘《きのり》のしない樣《やう》にいつた。
「俺《お》ら方《はう》へはまあだ、他村《ほかむら》から來《く》る頃《ころ》ぢやあんめえな」
「おとつゝあ等《ら》がにや分《わか》るもんかよ、そんなこと」
「そんでも、他村《ほかむら》から來《く》んだつて云《ゆ》つけぞ、支度《したく》して來《く》んだつて俺《お》ら今日《けふ》頭髮《あたま》結《ゆ》つてゝ聞《き》いたんだぞ」
「さうえ者《も》な、さうえ者《もの》よ」
「俺《お》ら行《い》つてんべ、よきも行《い》つて見《み》ろなあ、姉《ねえ》と一|緒《しよ》に」おつぎは獨語《ひとりごと》した。
「汝《わ》ツ等《ら》ことばかし遣《や》れつかえ」勘次《かんじ》は突然《とつぜん》呶鳴《どな》つた。
「そんでも、南《みなみ》のおつかさん行《ゆ》きたけりや連《つ》れてくつちつたんだぞ」
「箆棒《べらぼう》、そんなことされつかえ、踊《をどり》なんざあ後《あと》幾日《いくか》だつてあらあ、今夜《こんや》らつから行《え》かねえつたつてえゝから、他人《ひと》に云《ゆ》はれつとはあ、其《そ》れに乘《の》つてあふり/\出《て》たがんだから」勘次《かんじ》は一|概《がい》に叱《しか》りつけた。おつぎは締《し》め掛《か》けた帶《おび》を解《と》いて傍《そば》へ投《な》げ棄《す》てた。
次《つぎ》の日《ひ》の晩餐《ばんさん》には例年《れいねん》の如《ごと》く饂飩《うどん》が打《う》たれた。小麥粉《こむぎこ》を少《すこ》し鹽《しほ》を入《い》れた水《みづ》で捏《こ》ねて、それを玉《たま》にして、筵《むしろ》の間《あひだ》へ入《い》れて足《あし》で蹂《ふ》んで、棒《ぼう》へ卷《ま》いては薄《うす》く延《の》ばして、更《さら》に幾《いく》つかに疊《たゝ》んでそく/\と庖丁《はうちやう》で斷《た》つた。饂飩《うどん》の切《き》り端《はし》は皆《みな》一寸《ちよつと》一|箇所《かしよ》を撮《つま》んで三|角形《かくけい》に拵《こしら》へて膳《ぜん》へ並《なら》べて佛壇《ぶつだん》へ供《そな》へた。其《そ》の切《き》り端《はし》は其《そ》の翌朝《よくあさ》各自《かくじ》が自分《じぶん》の田畑《たはた》をぐるりと廻《まは》つては菽《まめ》や稻《いね》の穗《ほ》や其《そ》の他《た》の作物《さくもつ》を佛《ほとけ》へ供《そな》へるのであるが、佛《ほとけ》も其《そ》の朝《あさ》野廻《のまは》りに出《で》るのだといふので其《その》佛《ほとけ》の笠《かさ》に供《そな》へるのだといふのである。
踊子《をどりこ》を誘《さそ》ふ太鼓《たいこ》の音《おと》は夜《よ》を待《ま》ち兼《か》ねて鳴《な》り出《だ》した。勘次《かんじ》は其《そ》の夜《よ》蚊燻《かいぶ》しの支度《したく》もしないで紺《こん》の單衣《ひとへ》へぐる/\と無造作《むざうさ》に三|尺帶《じやくおび》を卷《ま》いて、雨戸《あまど》をがら/\と閉《た》て始《はじ》めた。さうして
「おつう支度《したく》して見《み》ろ、俺《おれ》連《つ》れてんから」勘次《かんじ》は性急《せいきふ》におつぎを促《うなが》し立《た》てた。大戸《おほど》の鍵《かぎ》を外《そと》から掛《か》けて三|人《にん》が庭《には》に立《た》つた時《とき》月《つき》は雲翳《うんえい》を遠《とほ》ざかつて靜《しづ》かに※[#「柿」の正字、第3水準1−85−57]《かき》の木《き》の上《うへ》に懸《かゝ》つて居《ゐ》た。
毎年《まいねん》極《きま》つた踊《をどり》の場所《ばしよ》は村《むら》の社《やしろ》の大《おほ》きな樅《もみ》の木陰《こかげ》である。勘次等《かんじら》三|人《にん》が行《い》つた時《とき》は踊子《をどりこ》はもう大分《だいぶ》集《あつま》つて居《ゐ》た。一足《ひとあし》森《もり》に入《はひ》れば劇《はげ》しく叩《たゝ》く太鼓《たいこ》の音《おと》が、その
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