いのであつた。それで普通《ふつう》どの家《うち》でも彼等《かれら》が滿足《まんぞく》を買《か》ひ得《う》る分量《ぶんりやう》を前以《まへもつ》て用意《ようい》して居《ゐ》るのである。
彼等《かれら》はさういふ夜《よ》に褞袍《どてら》を被《かぶ》つて他人《たにん》の裏戸口《うらどぐち》に立《た》たねば成《な》らぬ必要《ひつえう》な條件《でうけん》を一《ひと》つも有《も》つて居《ゐ》ない。只《たゞ》彼等《かれら》の凡《すべ》ては藁《わら》を打《う》つて繩《なは》を綯《な》ふべき夜《よる》の務《つと》めを捨《すて》て公然《こうぜん》一|所《しよ》に集合《しふがふ》する機會《きくわい》を見出《みいだ》すことを求《もと》めて居《ゐ》る。集合《しふがふ》することが直《たゞち》に彼等《かれら》に娯樂《ごらく》を與《あた》へるからである。兩性《りやうせい》が然《しか》も他人《たにん》の手《て》を藉《か》りて一《ひと》つに成《な》る婚姻《こんいん》の事實《じじつ》を聯想《れんさう》することから彼等《かれら》の心《こゝろ》が微妙《びめう》に刺戟《しげき》される。彼等《かれら》の凡《すべ》ては悉《ことごと》く異性《いせい》を知《し》り又《また》知《し》らんとして居《ゐ》る。彼等《かれら》は他人《たにん》の目《め》を偸《ぬす》むのには幾多《いくた》の支障《さはり》、それは其《そ》の爲《ため》に相《あひ》慕《した》ふ念慮《ねんりよ》が寧《むし》ろ却《かへつ》て熾《さかん》に且《か》つ永續《えいぞく》することすら有《あ》りながら、當事者《たうじしや》たる彼等《かれら》には五月繩《うるさ》い其《そ》の支障《さはり》をこつそりと拂《はら》ひ退《の》けねば成《な》らぬ焦燥《じれ》つたい感《かん》が止《や》まないのに、周圍《しうゐ》の凡《すべ》てが杯《さかづき》を擧《あ》げてくれる其《そ》の夜《よ》の當人同士《たうにんどうし》を念頭《ねんとう》に浮《うか》べる時《とき》彼等《かれら》は淡《あは》い嫉妬《しつと》を沸《わ》かさねば成《な》らぬ。それで彼等《かれら》の心《こゝろ》には喰《く》つてやれ、飮《の》んでやれ、さうして遣《や》らねば腹《はら》が癒《い》えぬといふ觀念《くわんねん》が期《き》せずして一致《いつち》するのである。笊《ざる》で運《はこ》んだ饂飩《うどん》が多人數《たにんずう》の彼等《かれら》に到底《たうてい》十|分《ぶん》の滿足《まんぞく》を與《あた》へ得《う》るものではない。然《しか》し彼等《かれら》は其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》ことに頓着《とんぢやく》を持《も》たぬ。
酒《さけ》が煤《すゝ》けた土瓶《どびん》で沸《わ》かされた。彼等《かれら》は各自《かくじ》に茶碗《ちやわん》へ注《つ》いでぐいと飮《の》んだ。其處《そこ》には燗《かん》の加減《かげん》も何《なに》も無《な》かつた。各自《かくじ》の喉《のど》がそれを要求《えうきう》するのではなくて一|種《しゆ》の因襲《いんしふ》が彼等《かれら》にそれを強《し》ひるのである。彼等《かれら》はじり/\と喉《のど》が焦《こ》げる樣《やう》に感《かん》じても苦《にが》い顏《かほ》を蹙《しか》めつゝ飮《の》んで見《み》る者《もの》さへある。比較的《ひかくてき》少量《せうりやう》な酒《さけ》が注《つ》ぐ度《たび》に手《て》にする度《たび》に筵《むしろ》の上《うへ》に滾《こぼ》れても彼等《かれら》は惜《をし》まない。彼等《かれら》はそれから茶碗《ちやわん》も箸《はし》もべたりと筵《むしろ》の上《うへ》へ置《お》いて、單純《たんじゆん》に水《みづ》へ醤油《しようゆ》を注《さ》した液汁《したぢ》に浸《ひた》して騷々敷《さう/″\しく》饂飩《うどん》を啜《すゝ》つた。
彼等《かれら》は平生《へいぜい》でもさうであるのに酒《さけ》の爲《ため》に幾分《いくぶん》でも興奮《こうふん》して居《ゐ》るので、各自《かくじ》の口《くち》から更《さら》に聞《き》くに堪《た》へぬ雜言《ざふごん》が吐《は》き出《だ》された。不作法《ぶさはふ》な言辭《げんじ》に麻痺《まひ》して居《ゐ》る彼等《かれら》はどうしたら相互《さうご》に感動《かんどう》を與《あた》へ得《う》るかと苦心《くしん》しつゝあつたかと思《おも》ふ樣《やう》な卑猥《ひわい》な一|句《く》が唐突《だしぬけ》に或《ある》一|人《にん》の口《くち》から出《で》ると他《た》の一|人《にん》が又《また》それに應《おう》じた。彼等《かれら》の間《あひだ》には異分子《いぶんし》を交《まじ》へて居《を》らぬ。彼等《かれら》は時《とき》によつては怖《おそ》れて控目《ひかへめ》にしつゝ身體《からだ》が萎縮《すく》んだやうに成《
前へ
次へ
全239ページ中98ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
長塚 節 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング