合《ばあひ》を巧《たくみ》に繕《つく》らふといふ料簡《れうけん》さへ苟且《かりそめ》にも持《も》つて居《ゐ》ない程《ほど》一|面《めん》に於《おい》ては濁《にごり》のない可憐《かれん》な少女《せうぢよ》であつた。おつぎは萎《しを》れて只《たゞ》ぽつさりと立《た》つて居《ゐ》る。勘次《かんじ》の目《め》は薄闇《うすくら》い手《て》ランプに光《ひか》つた。
「おつう」と一|聲《せい》呶鳴《どな》つて情《じやう》の激《げき》した勘次《かんじ》は咄嗟《とつさ》に次《つぎ》の語《ことば》が出《だ》せなかつた。
「何《なに》してけつかつたんだ」勘次《かんじ》はおつぎを睨《にら》みつけた。おつぎは俯向《うつむ》いて默《だま》つて居《ゐ》る。
「さあ云《ゆ》つて見《み》ろ、嘘《ちく》云《ゆ》つたつて知《し》つてつゝお」勘次《かんじ》は猶《なほ》も激《はげ》しく訊《たず》ねた。
「汝《わ》りや何時《いつ》でも何《なん》ちつた、おとつゝあげは決《けつ》して心配《しんぺえ》掛《か》けねえからつて云《ゆ》つたんぢやねえか、そんでも汝《わ》りや心配《しんぺえ》掛《か》けねえのか、掛《か》けねえつちんだら云《ゆ》つて見《み》ろ」彼《かれ》は忌々敷相《いま/\しさう》に且《か》つ刄《やいば》を以《もつ》て心部《むね》を突《つ》き通《とほ》される苦《くる》しさを忍《しの》んだかと思《おも》ふやうな容子《ようす》でわく/\する胸《むね》から聲《こゑ》を絞《しぼ》つていつた。彼《かれ》は暫《しばら》く間《あひだ》を措《お》いては又《また》、噛《か》んで/\噛締《かみし》めても噛《か》み切《き》れぬ或《ある》物《もの》に對《たい》するやうな焦燥《じれ》つたさと、期待《きたい》して居《ゐ》た或《ある》物《もの》を俄《にはか》に奪《うば》ひ去《さ》られた樣《やう》な絶望《ぜつばう》とが混淆《こんかう》し紛糾《ふんきう》した自暴自棄《やけ》の態度《たいど》を以《もつ》ておつぎを責《せ》めた。彼《かれ》の擧動《きよどう》は殆《ほとん》ど發作的《ほつさてき》であつた。おつぎの聲《こゑ》を殺《ころ》して泣《な》く聲《こゑ》は隙間《すきま》だらけな戸《と》の外《そと》に絶《た》え/″\に漏《も》れた。
 從來《これまで》とてもおつぎは假令《たとひ》異性《いせい》を慕《した》ふ性情《せいじやう》が漸《やうや》く發達《はつたつ》して來《き》たとはいひながら、竊《ひそか》に其《その》手《て》を執《と》られた時《とき》は、後《あと》では寧《むし》ろ悔《く》いるまでも羞恥《はぢ》と恐怖《おそれ》とそれから勘次《かんじ》を憚《はゞか》ることから由《よ》つて來《きた》る抑制《よくせい》の念《ねん》とが慌《あわ》てゝ其《そ》の手《て》を振《ふ》り※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《もき》らせるのであつた。其《そ》れが段々《だん/\》厭《いや》でない誘惑《いうわく》の手《て》に乘《の》つて甘《あま》い味《あぢ》を僅《わづか》に感《かん》ずる程度《ていど》まで近《ちか》づいた刹那《せつな》一|切《さい》が破壞《はくわい》し去《さ》られたのである。おつぎは以前《いぜん》に還《かへ》つて恐怖《きようふ》の手《て》に深《ふか》く其《そ》の身《み》を沒却《ぼつきやく》せねばならなく成《な》つた。深《ふか》い罪惡《ざいあく》を包藏《はうざう》して居《ゐ》ない其《そ》の夜《よ》の事件《じけん》はそれで濟《す》んだ。勘次《かんじ》は依然《やつぱり》おつぎには只《たゞ》一《ひと》つしか無《な》い大樹《たいじゆ》の陰《かげ》であつた。然《しか》し勘次《かんじ》自身《じしん》には如何《どん》な種類《しゆるゐ》の物《もの》でも現在《げんざい》彼《かれ》の心《こゝろ》に與《あた》へ得《う》る滿足《まんぞく》の程度《ていど》は、失《うしな》うたお品《しな》を追憶《つゐおく》することから享《う》ける哀愁《あいしう》の十|分《ぶん》の一にも及《およ》ばない。彼《かれ》は最早《もはや》それ以上《いじやう》彼《かれ》の心裏《しんり》に残存《ざんぞん》して居《ゐ》る或《あ》る物《もの》をまで奪《うば》ひ去《さ》られることには堪《た》へないのである。彼《かれ》は僅《わづか》に三|人《にん》の家族《かぞく》が油《あぶら》の如《ごと》く水《みづ》に彈《はじ》かれても疎外《そぐわい》されても只《たゞ》凝結《ぎようけつ》して居《ゐ》ることにのみ、假令《たとひ》慰藉《ゐしや》されないまでも不安《ふあん》を感《かん》ずることなしに其《そ》の日《ひ》/\と刻《きざ》んで暮《くら》して行《ゆ》くことが出來《でき》るのである。彼《かれ》は一|度《ど》でもおつぎが自分《じぶん》を離《はな》れたことを發見《はつけん》し或《あるひ》は意識《いしき
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