いうて止《や》まねば成《な》らぬ。然《しか》しながら遂《つひ》に其《その》一|人《にん》が彼等《かれら》の間《あひだ》に發見《はつけん》されなかつた。彼等《かれら》の怨恨《うらみ》が凡《すべ》て勘次《かんじ》の一|身《しん》に聚《あつま》つた。それでも淡白《たんぱく》な彼等《かれら》の怨恨《うらみ》は三|人《にん》以上《いじやう》が聚《あつま》つて口《くち》を開《ひら》けば必《かなら》ず笑聲《せうせい》を絶《た》たぬ程《ほど》のものであつた。怨恨《うらみ》といふよりも焦燥《じれ》つたさであつた。おつぎの身體《からだ》には恁《か》うして事件《じけん》を惹《ひ》き起《おこ》すべき機會《きくわい》が與《あた》へられなかつた。それでも只《たつた》一人《ひとり》おつぎと手《て》を執《と》つて語《かた》ることにまで近《ちか》づき得《え》たものがあつた。勘次《かんじ》はどれ程《ほど》嚴重《げんぢう》にしてもおつぎが厠《かはや》に通《かよ》ふ時間《じかん》をさへ狹《せま》い庭《には》の夜《よ》の中《なか》へ放《はな》つことを拒《こば》むことは出來《でき》なかつた。執念深《しふねんぶか》い一|人《にん》が偶然《ぐうぜん》さういふ機會《きくわい》を發見《はつけん》した。彼《かれ》は、まだ羞恥《はぢ》と恐怖《おそれ》とが全身《ぜんしん》を支配《しはい》して居《ゐ》るおつぎを捕《とら》へて只《たゞ》凝然《ぢつ》と動《うご》かさないまでには幾度《いくたび》か手《て》を換《かへ》て苦心《くしん》した。勘次《かんじ》が戸《と》の内《うち》から呼《よ》んでも厠《かはや》の側《そば》で返辭《へんじ》をするおつぎの聲《こゑ》は最初《さいしよ》の間《あひだ》は疑念《ぎねん》を懷《いだ》かせるまでには至《いた》らなかつた。其《そ》れでも彼等《かれら》が心《こゝろ》に深《ふか》く互《たがひ》の情《じやう》を刻《きざ》むまで猜忌《さいぎ》の目《め》を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つて居《ゐ》る勘次《かんじ》を欺《あざむ》きおほせることは出來《でき》なかつた。
或《ある》晩《ばん》勘次《かんじ》はがらつと戸《と》を開《あ》けて出《で》た。劇《はげ》しく開《あ》けた戸《と》が稍《やゝ》朽《く》ち掛《か》けた閾《しきゐ》の溝《みぞ》を外《はづ》れようとしてぎつしりと固着《こちやく》した。彼《かれ》は苛立《いらだ》つて戸《と》を叩《たゝ》いて溝《みぞ》に復《ふく》すと其《そ》の儘《まゝ》飛《と》び出《だ》した。彼《かれ》は直《すぐ》自分《じぶん》に近《ちか》く手拭《てぬぐひ》被《かぶ》つたおつぎの姿《すがた》が徐《おもむ》ろに動《うご》いて來《く》るのを見《み》た。其《それ》と同時《どうじ》に竊《ひそか》に落《お》ち行《ゆ》く草履《ざうり》の音《おと》が勘次《かんじ》の耳《みゝ》に響《ひゞ》いた。彼《かれ》は其《それ》を耳《みゝ》に感《かん》ずる瞬間《しゆんかん》右《みぎ》の手《て》が壁際《かべぎは》の木《き》の根《ね》に掛《かゝ》つて、木《き》の根《ね》は彼《かれ》の力《ちから》一|杯《ぱい》に木陰《こかげ》の闇《やみ》に投《とう》ぜられた。木《き》の根《ね》はどさりと遠《とほ》く落《お》ちて庭《には》の土《つち》をさくつて餘勢《よせい》が幾度《いくど》かもんどりを打《う》つた。勘次《かんじ》は續《つゞ》いて擲《なげう》つた。曲者《くせもの》は既《すで》に遁《に》げ落《お》ちたけれど彼《かれ》の不意《ふい》の襲撃《しふげき》に慌《あわ》てゝ節《ふし》くれ立《だ》つた※[#「柿」の正字、第3水準1−85−57]《かき》の根《ね》に蹶《つまづ》いて倒《たふ》れた。彼《かれ》は次《つき》の日《ひ》足《あし》を引《ひき》ずらねば歩《ある》けぬ程《ほど》足首《あしくび》の關節《くわんせつ》に疼痛《とうつう》を感《かん》じたのであつた。勘次《かんじ》はぽつさりと立《た》つて居《ゐ》るおつぎを突《つ》きのめす樣《やう》に戸口《とぐち》に送《おく》つてがらりと戸《と》を閉《と》ぢて掛金《かけがね》を掛《か》けた。
其《その》夜《よ》はまだ各《おの/\》が一つ加《くは》はつた年齡《ねんれい》の數《かず》程《ほど》の熬豆《いりまめ》を噛《かじ》つて鬼《おに》をやらうた夜《よ》から、幾《いく》らも隔《へだ》たらないので、鹽鰮《しほいわし》の頭《あたま》と共《とも》に戸口《とぐち》に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]《さ》した柊《ひゝらぎ》の葉《は》も一向《いつかう》に乾《かわ》いた容子《やうす》の見《み》えない程《ほど》のことであつた。おつぎは十八《じふはち》というても其《そ》の年齡《とし》に達《たつ》したといふばかりで、恁《こ》んな場
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