傳《つた》ふるものではない。彼《かれ》は只《たゞ》其《そ》の日《ひ》/\の生活《せいくわつ》が自分《じぶん》の心《こゝろ》に幾《いく》らでも餘裕《よゆう》を與《あた》へて呉《く》れればとのみ焦慮《あせ》つて居《ゐ》るのである。彼《かれ》の心《こゝろ》を滿足《まんぞく》せしめる程度《ていど》は、譬《たと》へば目前《もくぜん》に在《あ》る低《ひく》い竹《たけ》の垣根《かきね》を破壤《はくわい》して一|歩《ぽ》足《あし》を其《その》域内《ゐきない》に趾《あと》つけるだけのことに過《す》ぎないのである。然《しか》も竹《たけ》の垣根《かきね》は朽《く》ちて居《ゐ》る。朽《く》ちた低《ひく》い竹《たけ》の垣根《かきね》は其《そ》の強《つよ》い手《て》の筋力《きんりよく》を以《もつ》て破壤《はくわい》するに何《なん》の造作《ざうさ》もない筈《はず》であるが、手《て》の先端《せんたん》を觸《ふ》れしめることさへ出來《でき》ないで居《ゐ》るのである。彼《かれ》は長《なが》い時間《じかん》氷雪《ひようせつ》の間《あひだ》を渉《わた》つた後《のち》、一|杯《ぱい》の冷《つめ》たい釣瓶《つるべ》の水《みづ》を注《そゝ》ぐことによつて快《こゝよ》よい暖氣《だんき》を其《そ》の赤《あか》く成《な》つた足《あし》に感《かん》ずる樣《やう》に、僅少《きんせう》な或《ある》物《もの》が彼《かれ》の顏面《がんめん》の僻《ひが》んだ筋《すぢ》を伸《のべ》るに十|分《ぶん》であるのに、彼《かれ》は其《そ》の冷水《れいすゐ》の一|杯《ぱい》をさへ空《むな》しく求《もと》めつゝあつたのである。自然《しぜん》に形《かたちづく》られて居《ゐ》る階級《かいきふ》の相違《さうゐ》を有《いう》して居《ゐ》る者《もの》又《また》は長《なが》い間《あひだ》彼《かれ》の生活《せいくわつ》の内情《ないじやう》を知悉《ちしつ》して居《ゐ》る者《もの》からは彼《かれ》は同情《どうじやう》の眼《まなこ》を以《もつ》て視《み》られて居《ゐ》るけれども、こせ/\とした其《そ》の態度《たいど》と、狐疑《こぎ》して居《ゐ》るやうな其《その》容貌《ようばう》とは其處《そこ》に敢《あへ》て憎惡《ぞうを》すべき何物《なにもの》も存在《そんざい》して居《ゐ》ないにしても到底《たうてい》彼等《かれら》の伴侶《なかま》の凡《すべ》てと融和《ゆうわ》さるべき所以《ゆゑん》のものではない。彼《かれ》は彼等《かれら》の伴侶《なかま》に在《あ》つては、幾度《いくたび》かいひふらされて居《ゐ》る如《ごと》く水《みづ》に落《おと》した菜種油《なたねあぶら》の一|滴《てき》である。水《みづ》が動《うご》く時《とき》油《あぶら》は隨《したが》つて動《うご》かねば成《な》らぬ。水《みづ》が傾《かたむ》く時《とき》油《あぶら》は亦《また》傾《かたむ》かねば成《な》らぬ。併《しか》し水《みづ》が平靜《へいせい》の度《ど》を保《たも》つ時《とき》油《あぶら》は更《さら》に怖《おそ》れたやうに一|所《しよ》に凝集《ぎようしふ》する。兩者《りやうしや》の間《あひだ》には何等《なんら》其《そ》の性質《せいしつ》を變化《へんくわ》せしむべき作用《さよう》の起《おこ》るでもなく、其《そ》れは水《みづ》が油《あぶら》を疎外《そぐわい》するのか、油《あぶら》が水《みづ》を反撥《はんぱつ》するのか遂《つひ》に溶《と》け合《あ》ふ機會《きくわい》が無《な》いのである。之《これ》を攪亂《かうらん》する他《た》の力《ちから》が加《くは》へられねば兩者《りやうしや》は唯《たゞ》平靜《へいせい》である。村落《むら》の空氣《くうき》が平靜《へいせい》である如《ごと》く、勘次《かんじ》と他《た》の凡《すべ》てとの間《あひだ》も極《きは》めて平靜《へいせい》でそれで相《あひ》容《いれ》ないのである。勘次《かんじ》は其《そ》の菜種油《なたねあぶら》のやうに櫟林《くぬぎばやし》と相《あひ》接《せつ》しつゝ村落《むら》の西端《せいたん》に僻在《へきざい》して親子《おやこ》三|人《にん》が只《たゞ》凝結《ぎようけつ》したやうな状態《じやうたい》を保《たも》つて落付《おちつい》て居《ゐ》るのである。
偶然《ぐうぜん》に起《おこ》つた彼《かれ》の破廉耻《はれんち》な行爲《かうゐ》が俄《にはか》に村落《むら》の耳目《じもく》を聳動《しようどう》しても、兎《と》にも角《かく》にも一|家《か》を處理《しより》して行《ゆ》かねばならぬ凡《すべ》ての者《もの》は、彼等《かれら》に共通《きようつう》な聞《き》きたがり知《し》りたがる性情《せいじやう》に驅《か》られつゝも、寧《むし》ろ地味《ぢみ》で移氣《うつりぎ》な心《こゝろ》が際限《さいげん》もなく一《ひと》つを逐《お》ふには年齡《ねんれ
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