ぼつ》し去《さ》つた切《き》り、軈《やが》て梅雨《つゆ》が夥《おびたゞ》しく且《か》つ毒々《どく/\》しい其《そ》の栗《くり》の花《はな》の腐《くさ》るまではと降《ふ》り出《だ》したので其《そ》の女《をんな》の穢《きたな》げな窶《やつ》れた姿《すがた》は再《ふたゝ》び見《み》られなかつた。
 勘次《かんじ》は耳《みゝ》の底《そこ》に響《ひゞ》いた其《そ》の句《く》を獨《ひと》り感《かん》に堪《た》へたやうに唄《うた》うては行《ゆ》くのである。彼《かれ》は自分《じぶん》の聲《こゑ》が高《たか》いと思《おも》つた時《とき》他人《ひと》に聞《き》かれることを恥《は》づるやうに突然《とつぜん》あたりを見《み》ることがあつた。曲《まが》り角《かど》でひよつと逢《あ》ふ時《とき》それが口輕《くちがる》な女房《にようばう》であれば二三|歩《ぽ》行《や》り過《すご》しては
「どうしたえ、勘次《かんじ》さん彼女《あれ》げ焦《こが》れたんぢやあんめえ、尤《もつと》も年頃《としごろ》は持《も》つゝけだから連《つれ》つ子《こ》の一人《ひとり》位《ぐれえ》は我慢《がまん》も出來《でき》らあな、そんだがあれつ切《き》り來《き》なくなつちやつて困《こま》つたな」と遠慮《ゑんりよ》もなく揶揄《からか》うては、少《すこ》し隔《へだ》たると態《わざ》と聲《こゑ》を立《た》てゝ其《そ》の句《く》を唄《うた》つたりする。さうすると勘次《かんじ》は家《うち》に歸《かへ》るまで一|句《く》も唄《うた》はない。然《しか》し彼《かれ》は暫《しばら》くそれを唄《うた》ふことを止《や》めなかつた。
 彼《かれ》は只《たゞ》女房《にようばう》が欲《ほし》い/\とのみ思《おも》つた。

         九

 勘次《かんじ》は依然《いぜん》として苦《くる》しい生活《せいくわつ》の外《そと》に一|歩《ぽ》も遁《のが》れ去《さ》ることが出來《でき》ないで居《ゐ》る。お品《しな》が死《し》んだ時《とき》理由《わけ》をいうて借《か》りた小作米《こさくまい》の滯《とゞこほ》りもまだ一|粒《つぶ》も返《かへ》してない。大暑《たいしよ》の日《ひ》が井戸《ゐど》の水《みづ》まで減《へ》らして炒《い》りつける頃《ころ》はそれまでに幾度《いくたび》か勘次《かんじ》の※[#「穀」の「禾」に代えて「釆」、126−10]桶《こくをけ》は空《から》に成《な》るのである。彼《かれ》は一|般《ぱん》の百姓《ひやくしやう》がすることは仕《し》なくては成《な》らないので、殊《こと》には副食物《ふくしよくぶつ》として必要《ひつえう》なので茄子《なす》や南瓜《たうなす》や胡瓜《きうり》やさういふ物《もの》も一通《ひととほ》りは作《つく》つた。彼《かれ》は村外《むらはづ》れの櫟林《くぬぎばやし》の側《そば》に居《ゐ》たので自分《じぶん》の家《いへ》の近《ちか》くにはさういふ物《もの》を作《つく》る畑《はたけ》が一|枚《まい》もなかつた。それでも胡瓜《きうり》だけは垣根《かきね》の内側《うちがは》へ一|列《れつ》に植《う》ゑて後《うしろ》の林《はやし》に交《まじ》つた短《みじか》い竹《たけ》を伐《き》つて手《て》に立《た》てた。竹《たけ》の立《た》つてる林《はやし》は彼《かれ》の所有《しよいう》ではないけれど、彼《かれ》は恁《か》うして必要《ひつえう》の度《たび》毎《ごと》に強《し》ひては隱《かく》さない盜《ぬす》みを敢《あへ》てするのである。南瓜《たうなす》も庭《には》の隅《すみ》へ粟幹《あはがら》で圍《かこ》うた厠《かはや》の側《そば》へ植《う》ゑた。それから庭《には》の栗《くり》の木《き》へも絡《から》ませた。茄子《なす》だけは遠《とほ》い畑《はたけ》の麥《むぎ》の畦間《うねま》へ植《う》ゑた。彼《かれ》は甘藷《さつまいも》の外《ほか》には到底《たうてい》さういふ凡《すべ》ての苗《なへ》を仕立《した》てることが出來《でき》ないので、又《また》立派《りつぱ》な苗《なへ》を買《か》ひに行《ゆ》く丈《だけ》の餘裕《よゆう》もないので、容子《ようす》から見《み》れば近村《きんそん》ではあるが何處《どこ》とも確乎《しか》とは知《し》れない天秤商人《てんびんあきうど》からそれを求《もと》めた。天秤商人《てんびんあきうど》の持《も》つて來《く》るのは大抵《たいてい》屑《くづ》ばかりである。それでも勘次《かんじ》は廉《やす》いのを悦《よろこ》んだ。彼《かれ》は其《そ》の僅《わづか》な錢《ぜに》を幾度《いくたび》か勘定《かんぢやう》して渡《わた》した。
 麥《むぎ》が刈《か》られて其《そ》の束《たば》が兩端《りやうはし》を切《き》つ殺《そ》いだ竹《たけ》の棒《ぼう》へ透《とほ》して畑《はたけ》の外《そと》へ擔《かつ》ぎ出《だ》された時
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