《で》て船《ふね》が現《あら》はれた。渡《わた》し船《ぶね》が深夜《しんや》に人《ひと》を乘《の》せたのでしやぶつといふ響《ひゞき》は舟棹《ふなさを》が水《みづ》を掻《か》つ切《き》る度《たび》に鳴《な》つたのである。おつぎは又《また》土手《どて》へ戻《もど》つて大《おほ》きな川柳《かはやなぎ》の傍《そば》に身《み》を避《さ》けた。二三|語《ご》を交換《かうくわん》して人《ひと》は去《さ》つたやうである。船頭《せんどう》は闇《くら》い小屋《こや》の戸《と》をがらつと開《あ》けて又《また》がらつと閉《と》ぢた。おつぎは暫《しばら》く待《ま》つて居《ゐ》てそれからそく/\と船《ふね》を繋《つな》いだあたりへ下《お》りた。おつぎは直《す》ぐ側《そば》でかさ/\と何《なに》かが動《うご》くのを聞《き》くと共《とも》に、ゐい/\と豚《ぶた》らしい鳴聲《なきごゑ》のするのを聞《き》いた。
「行《え》くのかあ」とまだ眠《ねむ》らなかつた船頭《せんどう》は突然《とつぜん》特有《もちまへ》の大聲《おほごゑ》で呶鳴《どな》つた。おつぎは驚《おどろ》いて又《また》一|散《さん》に土手《どて》を走《はし》つた。船頭《せんどう》はがらつと戸《と》を開《あ》けて、人《ひと》の走《はし》つたやうな響《ひゞ》きが明《あきら》かに耳《みゝ》に感《かん》じたので、遙《はるか》に闇《くら》い土手《どて》を透《すか》して見《み》てぶつ/\いひながら彼《かれ》は更《さら》に豚小屋《ぶたごや》に近《ちか》づいて燐寸《マツチ》をさつと擦《す》つて見《み》て「油斷《ゆだん》なんねえ」と呟《つぶや》いて又《また》戸《と》を閉《と》ぢた。彼《かれ》は内職《ないしよく》に飼《か》つた豚《ぶた》が近頃《ちかごろ》子《こ》を生《う》んだので他人《たにん》が覘《ねらひ》はせぬかと懸念《けねん》しつゝあつたのである。おつぎは何處《どこ》でも構《かま》はぬと土手《どて》の篠《しの》を分《わ》けて一《ひと》つ/\に蜀黍《もろこし》の穗《ほ》を力《ちから》の限《かぎ》り水《みづ》に投《とう》じた。おつぎは空《から》な草刈籠《くさかりかご》を脊負《せお》つて急《いそ》いで歸《かへ》つた。
 おつぎがこと/\と叩《たゝ》いた時《とき》内儀《かみ》さんは直《すぐ》に戸《と》を開《あ》けて
「どうしたい、大變《たいへん》遲《おそ》かつたね」
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