ゝ》いで其《そ》のぼろ/\な麥飯《むぎめし》を掻《か》き込《こ》む時《とき》彼等《かれら》の一人《ひとり》でも咀嚼《そしやく》するものはない。彼等《かれら》は只《たゞ》多量《たりやう》に嚥下《えんげ》することによつて其《そ》の精力《せいりよく》を恢復《くわいふく》し滿足《まんぞく》するのである。牛《うし》や馬《うま》でも地上《ちじやう》に軟《やはら》かな草《くさ》の繁茂《はんも》する季節《きせつ》が來《く》れば自然《しぜん》に乾草《ほしぐさ》や藁《わら》を厭《いと》ふやうになる。それが貧《まづ》しい生活《せいくわつ》の人人《ひと/″\》のみは恁《か》うして甘《あま》んじて居《ゐ》ることを餘儀《よぎ》なくされつゝあるのである。
然《しか》し孰《いづ》れも發汗《はつかん》に伴《ともな》うて渇《かつ》した口《くち》に爽《さわや》かな蔬菜《そさい》の味《あぢ》を欲《ほつ》しないものはない。貧苦《ひんく》に惱《なや》んでさうして其《そ》の蔬菜《そさい》の缺乏《けつばふ》を感《かん》じて居《ゐ》るものは勘次《かんじ》のみではない。さういふ伴侶《なかま》の殊《こと》に女《をんな》は人目《ひとめ》の少《すくな》い黄昏《たそがれ》の小徑《こみち》につやゝかな青物《あをもの》を見《み》ると遂《つひ》した料簡《れうけん》からそれを拗切《ちぎ》つて前垂《まへだれ》に隱《かく》して來《く》ることがある。畑《はたけ》の作主《さくぬし》が其《その》損失《そんしつ》以外《いぐわい》にそれを惜《をし》む心《こゝろ》から蔭《かげ》で勢《いきほ》ひ激《はげ》しく怒《おこ》らうともそれは顧《かへり》みる暇《いとま》を有《も》たない。勘次《かんじ》の痩《や》せた茄子畑《なすばたけ》もさうして襲《おそ》はれた。其《そ》の莖《くき》を痛《いた》めても構《かま》はぬ拗切《ちぎ》りやうを見《み》て失望《しつばう》と憤懣《ふんまん》の情《じやう》とを自然《しぜん》に經驗《けいけん》せざるを得《え》なかつた。然《しか》しながら彼《かれ》はつく/″\と忌々敷《いま/\し》い其《その》心持《こゝろもち》に熟《じゆく》して居《ゐ》ながら自分《じぶん》も亦《また》他《た》の虚《きよ》に乘《じよう》ずることを敢《あへ》てするのであつた。一《ひと》つにはどうで他人《ひと》にも盜《と》られるのだからといふ自暴自棄《やけ》の理窟《り
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