くつ》が心《こゝろ》のうちに捏造《ねつざう》されるのである。一《ひと》つには良心《りやうしん》の苛責《かしやく》を餘所《よそ》にしてさうして又《また》それが何處《どこ》までも發見《はつけん》せられないものであるならば他人《ひと》の物《もの》を盜《と》ることは口腹《こうふく》の慾《よく》を滿足《まんぞく》せしむるには容易《ようい》で且《かつ》輕便《けいべん》な手段《しゆだん》でなければならぬ筈《はず》である。恁《か》ういふ理由《わけ》で比較的《ひかくてき》餘裕《よゆう》のある百姓《ひやくしやう》よりも貧乏《びんばふ》な百姓《ひやくしやう》は十|分《ぶん》早《はや》く然《し》かも數次《しば/″\》其《そ》の新鮮《しんせん》な蔬菜《そさい》を味《あぢあ》ふのである。偶《たま/\》市場《しぢやう》に遠《とほ》く馬《うま》の脊《せ》で運《はこ》ぶ者《もの》は其《そ》の成熟《せいじゆく》の期《き》を早《はや》めたつやゝかな數《かず》が幾《いく》ら有《あ》つても自分《じぶん》の口《くち》には入《い》れない。少《すこ》しづゝでも他《ほか》の必要品《ひつえうひん》を求《もと》める爲《ため》に錢《ぜに》に換《か》へようとするのである。季節《きせつ》が熟《じゆく》さねば收穫《しうくわく》の多量《たりやう》を望《のぞ》むことが出來《でき》ないので、彼等《かれら》が食料《しよくれう》として畑《はたけ》へ手《て》をつけるのは凡《すべ》てが存分《ぞんぶん》の生育《せいいく》を遂《と》げた後《あと》でなければならぬ。其處《そこ》が相互《さうご》に盜《ぬす》むものをして乘《じよう》ぜしめる機會《きくわい》である。
 與吉《よきち》は能《よ》く貧乏《びんばふ》な伴侶《なかま》の子《こ》が佳味相《うまさう》に青物《あをもの》を噛《かじ》つて居《ゐ》るのを見《み》ておつぎに強請《せが》むことがあつた。勘次《かんじ》の家《うち》ではどうかすると朝《あさ》に成《な》つて大《おほ》きな南瓜《たうなす》が土間《どま》に轉《ころ》がつて居《ゐ》ることがある。それで庭《には》の南瓜《たうなす》は一《ひと》つも減《へ》つて居《ゐ》ない。
「こらどうしたんでえおとつゝあ」與吉《よきち》は悦《よろこ》んで危《あぶ》な相《さう》に抱《だ》いては聞《き》く。
「弄《いぢ》んぢやねえ」勘次《かんじ》は只《たゞ》恐《おそ》ろしい目
前へ 次へ
全478ページ中142ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長塚 節 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング