《ゆ》く。百姓《ひやくしやう》といへば什※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》に愚昧《ぐまい》でも凡《すべ》ての作物《さくもつ》を耕作《かうさく》する季節《きせつ》を知《し》らないことはない。村落《むら》の端《はし》から端《はし》まで皆《みな》同《どう》一の仕事《しごと》に屈託《くつたく》して居《ゐ》るのだから其《そ》の季節《きせつ》を假令《たとひ》自分《じぶん》が忘《わす》れたとしても全《まつた》く忘《わす》れ去《さ》ることの出來《でき》るものではない。然《しか》しもう季節《きせつ》だと知《し》つて見《み》ても其《そ》の日《ひ》/\の食料《しよくれう》を求《もと》める爲《た》めに勞力《らうりよく》を割《さ》くのと、肥料《ひれう》の工夫《くふう》がつかなかつたりするのとで作物《さくもつ》の生育《せいいく》からいへば三日《みつか》を爭《あらそ》ふやうな時《とき》でも思《おも》ひながら手《て》が出《で》ないのである。以前《いぜん》のやうに天然《てんねん》の肥料《ひれう》を獲《う》ることが今《いま》では出來《でき》なくなつて畢《しま》つた。何處《どこ》の林《はやし》でも落葉《おちば》を掻《か》くことや青草《あをぐさ》を刈《か》ることが皆《みな》錢《ぜに》に餘裕《よゆう》のあるものゝ手《て》に歸《き》して畢《しま》つた。それと共《とも》に林《はやし》は封鎖《ふうさ》されたやうな姿《すがた》に成《な》つて居《ゐ》る。冬《ふゆ》毎《ごと》に熊手《くまで》の爪《つめ》の及《およ》ぶ限《かぎ》り掻《か》いて行《ゆ》くので、草《くさ》も隨《したが》つて短《みじか》くなつて腰《こし》を沒《ぼつ》するやうな處《ところ》は滅多《めつた》にない。其《そ》の草《くさ》も更《さら》に土《つち》から刈《か》つて行《ゆ》くので次第《しだい》に土《つち》が痩《や》せて行《ゆ》く。だから空手《からて》では何處《どこ》へ行《い》つても竊取《せつしゆ》せざる限《かぎり》は存分《ぞんぶん》に軟《やはら》かな草《くさ》を刈《か》ることは出來《でき》ない。貧乏《びんばう》な百姓《ひやくしやう》は落葉《おちば》でも青草《あをぐさ》でも、他人《ひと》の熊手《くまで》や鎌《かま》を入《い》れ去《さ》つた後《あと》に求《もと》める。さうして瘠《や》せて行《ゆ》く土《つち》
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