。卯平《うへい》は心《こゝろ》に涙《なみだ》を呑《の》んだ。
 勘次《かんじ》は悄然《せうぜん》として居《ゐ》た。與吉《よきち》が泣《な》く度《たび》に彼《かれ》は困《こま》つた。さうして毎日《まいにち》お品《しな》のことを思《おも》ひ出《だ》しては、天秤《てんびん》で手桶《てをけ》を擔《かつ》いだ姿《すがた》が庭《には》にも戸口《とぐち》にも時《とき》としては座敷《ざしき》にも見《み》えることがあつた。側《そば》に居《ゐ》るやうな氣《き》がして思《おも》はず顧《かへり》みることもあるのであつた。彼《かれ》はお品《しな》を思《おも》ひ出《だ》すと與吉《よきち》を抱《だ》いては「なあ、おつかあは居《ゐ》ねえんだぞ、おつかあが乳房《ちつこ》欲《ほ》しがんねえんだぞ」と始終《しじう》いつて聞《き》かせた。お品《しな》が居《ゐ》ないと殊更《ことさら》にいふのはそれは一つには彼自身《かれじしん》の斷念《あきらめ》の爲《ため》でもあつたのである。
 お品《しな》は豆腐《とうふ》を擔《かつ》いで居《ゐ》る時《とき》は能《よ》く麥酒《ビール》の明罎《あきびん》を手桶《てをけ》へ括《くゝ》つて行《い》つた。それで歸《かへ》りの手桶《てをけ》が輕《かる》くなつた時《とき》は勘次《かんじ》の好《す》きな酒《さけ》がこぼ/\と罎《びん》の中《なか》で鳴《な》つて居《ゐ》た。お品《しな》は酒店《さかだな》へ豆腐《とうふ》を置《お》いては其《その》錢《ぜに》だけ酒《さけ》を入《い》れて貰《もら》ふので豆腐《とうふ》の儲《まう》けだけ廉《やす》い酒《さけ》を買《か》つて勘次《かんじ》を悦《よろこ》ばせるのであつた。それはお品《しな》の死《し》ぬ年《とし》のことだけである。お品《しな》は漸《やうや》く商《あきなひ》を覺《おぼ》えたといつて居《ゐ》たのはまだ其《そ》の夏《なつ》の頃《ころ》からである。初《はじ》めは極《きま》りが惡《わる》くて他人《たにん》の閾《しきゐ》を跨《また》ぐのを逡巡《もぢ/\》して居《ゐ》た。其《そ》の位《くらゐ》だから變《へん》な赤《あか》い顏《かほ》もして餘計《よけい》に不愛想《ぶあいさう》にも見《み》えるのであつたが、後《のち》には相應《さうおう》に時候《じこう》の挨拶《あいさつ》もいへるやうに成《な》つたとお品《しな》は能《よ》く勘次《かんじ》へ語《かた》つたのであ
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