んちう》の煙管《きせる》で火鉢《ひばち》を叩《たゝ》いて居《ゐ》た。卯平《うへい》と勘次《かんじ》とは其《そ》の間《あひだ》碌《ろく》に口《くち》も利《きか》なかつた。勘次《かんじ》は自分《じぶん》の身體《からだ》と自分《じぶん》の心《こゝろ》とが別々《べつ/\》に成《な》つたやうな心持《こゝろもち》で自分《じぶん》が自分《じぶん》をどうする事《こと》も出來《でき》なかつた。それでも小作米《こさくまい》のことは其《そ》の念頭《ねんとう》から沒《ぼつ》し去《さ》ることはなかつた。貧乏《びんばふ》な小作人《こさくにん》の常《つね》として彼等《かれら》は何時《いつ》でも恐怖心《きようふしん》に襲《おそ》はれて居《ゐ》る。殊《こと》に其《そ》の地主《ぢぬし》を憚《はゞか》ることは尋常《じんじやう》ではない。さうして自分《じぶん》の作《つく》り來《きた》つた土地《とち》は死《し》んでも噛《かぢ》り附《つ》いて居《ゐ》たい程《ほど》それを惜《をし》むのである。彼等《かれら》の最初《さいしよ》に踏《ふ》んだ土《つち》の強大《きやうだい》な牽引力《けんいんりよく》は永久《えいきう》に彼等《かれら》を遠《とほ》く放《はな》たない。彼等《かれら》は到底《たうてい》其《そ》の土《つち》に苦《くる》しみ通《とほ》さねばならぬ運命《うんめい》を持《も》つて居《ゐ》るのである。
 勘次《かんじ》はお品《しな》の葬式《さうしき》が濟《す》むと直《すぐ》に新《あたら》しい俵《たはら》へ入《い》れた小作米《こさくまい》を地主《ぢぬし》へ運《はこ》んで行《ゆ》かねば成《な》らぬとそれが心《こゝろ》を苦《くる》しめて居《ゐ》た。然《しか》し其《そ》の時《とき》は其《そ》の新《あたら》しい俵《たはら》の一つは輪《わ》に成《な》つた繩《なは》から拔《ぬ》けて、米《こめ》は叩《たゝ》いても幾《いく》らも出《で》なかつた。勘次《かんじ》は次《つぎ》の年《とし》には殆《ほとん》ど自分《じぶん》一人《ひとり》の手《て》で農事《のうじ》を勵《はげ》まなくてはならぬ。例年《れいねん》のやうに忙《いそが》しい季節《きせつ》に日傭《ひよう》に行《ゆ》くことも出來《でき》まいし、それにはお袋《ふくろ》に捨《す》てられた二人《ふたり》の子供《こども》も有《あ》ることだし、今《いま》から穀《こく》の用意《ようい》もしなくては成《
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