で山門をのぞいて見たら石垣の上の一|畝《うね》の茶の木を白衣の所化《しよけ》が二人で摘んで居る所であつた。山門の前には茶店が相接して居る。自分は一足さきに出拔けて振り返つて見たらお秋さんは背負子を負うた儘婆さん達に取り卷かれて話をして居る。たまたま谷底から出て來ると互に珍らしいのだ。攫《つかま》へて放されないのだらうと思つた。お秋さんは人に好かれるといふのは極つて居ることなのだ。自分は規則正しく植ゑられた櫻の木の青葉の蔭に佇《たゝず》んで待つて見たがどういふものかお秋さんは遂に來ない。然し茶店まで戻つて見るといふこともしえなかつた。自分は急に油が拔けたやうな寂しい心持になつて宿へ歸つた。
 清澄山は自分にはすべてが滿足であつた。然しお秋さんと言葉を交して別れなかつたことはどうしても遺憾である。針へ通した絲のうらを結ばないやうな感じである。
[#地から1字上げ](明治卅九年七月)



底本:「現代日本文学全集6 正岡子規 伊藤左千夫 長塚節集」筑摩書房
   1956(昭和31年)6月15日発行
初出:「馬醉木」
   1906(明治39)年7月
入力:林 幸雄
校正:浅原庸子
200
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