茫《べうばう》たる海洋は夏霞が淡く棚曳いたといふ程ではないがいくらかどんよりとして唯一抹である。じつと見て居ると何處からか胡粉《ごふん》を落したといふ樣にぽちつと白いものが見え出した。漁舟である。二つも三つも見え出した。白帆はもとからそこにあつたのだ。尚じつと見つめて居るとぽちつと白いのが段々自分へ逼《せま》つて來るやうに思はれる。遠くはすべてがぼんやりである。谷の梢や胡蝶花の花や樅の眞白な板や近いものは近いだけ鮮かである。さうして最も近いものはお秋さんである。お秋さんは背負子を岩の上に乘せてくるりと背中を向けて背負つた。
 妙見越《めうけんごえ》を過ぎると頂上で、杉の大木が密生して居る。そこにも羊齒《しだ》や笹の疎らな間にほつほつと胡蝶花の花がさいて居る。一層しをらしく見える。清澄寺の山門まで來ると山稼ぎの女が樅板を負うたのや炭俵を負うたのが五六人で休んで居る。孰《いづ》れも恐ろしい相形《さうぎやう》である。山稼ぎの女はいくらあるか知れぬがお秋さん程のものは甞て似たものさへも見ないのである。彼等とならんだお秋さんは恰《あたか》も羊齒《しだ》の中の胡蝶花の花である。寺の見收めといふ積り
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