太十の強く踏んだ足跡と其草履とがあったので到底逃げる処を打ったという事実の分疎は立たぬというのを聞いて皆悄れて畢った。其内怪我人の危険状態は経過した。然し全治までには長い時間を要すると医師は診断した。告訴を受ければ太十は監獄署の門をくぐらねばならぬと思って居る。彼はどれ程警察署や監獄署に恐怖の念を懐いたろう。彼はそれからげっそり窶れて唯とぼとぼとした。事件は内済にするには彼の負担としては過大な治療金を払わねばならぬ。姻戚のものとも諮って家を掩いかぶせた其の竹や欅を伐ることにした。彼は監獄署へ曳かれるのは身を斬られるよりもつらかった。竹でも欅でも何でも惜しくないと彼は思った。だが其頃はまだ竹や木を伐採するには季節が早過ぎたのと一つは彼の足もとをつけ込む商人の値段は皆廉かった。有繋に彼も躊躇した。恐怖心が湧起した時には彼には惜しい何物もなかった。それで居て彼は蚊帳の釣手を切って愚弄されたことや何ということはなしに只心外で堪らなくなる。商人は太十に勧めた。太十はそれが余りに廉いと思うとぐっと胸がこみあげて
「構わねえ、おら伐らねえ」
と呶鳴った。
「おれが死んじまったらどうも出来めえ」
と更
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