松蟲草
長塚節

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)茅淳《ちぬ》の海

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「彳+(氏/一)」、第3水準1−84−31」]徊

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)しら/\と
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         一

 泉州の堺から東へ田圃を越えるとそこに三つの山陵がある。中央の山陵は杉の木が一杯に掩うて蔚然と小山のやうである。此が人工で成つたとは思はれぬ程壯大な形である。土地は百舌鳥の耳原であるから百舌鳥の耳原の中の陵というて居るのである。山陵のめぐりは畑で豆や稗や粟が作つてある。豆の葉は黄ばんで稗や粟の穗が傾いて居る。そこらあたりには芒が一簇二簇ところどころに茂つて、出たばかりの薄赤い穗が鮮かである。遠く西方を見渡すと此所からでは低く青田が連つて青田の先はすぐに茅淳《ちぬ》の海である。海は日の射し加減で只しら/\と見える。ゆつたり横はつて居る淡路島が手もとゞき相である。其海から青田を越えて吹きおくる凉風がさわ/\と其芒の穗を吹き靡ける。芒の穗は靡いては起きあがり/\吹かれて居る。余は其のあたりに※[#「彳+(氏/一)」、第3水準1−84−31」]徊して居ると青草の茂つた南の山陵の蔭から白い笠の百姓の女らしいのが七八人連れ立つて余の立つて居る方へ近づく。能く見ると女は皆爪折笠である。白い手拭をだらりと長く冠つて其上から笠の紐を結んで居る。衣物は皆紺の筒袖である。さうして孰れも卷いた蓙を左に抱へて居る。女共は山陵の濠のほとりを傳つて行く。濠は非常に長いので其ほとりを行く女共はだん/\小さくなる。余は其風情ある後姿を見おくりながらかういふ閑寂の境地に豆や稗を作つて居る百姓は幸であると思つた。山陵のある所から少し離れて坂がある。そこに一軒穢げな藁家の茶店がある。一簇の芒の穗がそこにも靡いて居る。あたりのさまと相俟つて此の茶店も余が心を惹いた。汲んでくれた茶を啜つて女房と噺をする。女房は山陵のあるあたりは百舌鳥の耳原ではなくて舳の松といふ村だと打ち消すやうにいつた。女房は現在のことより外は知らぬのである。店先には小さな薄板に下手なしかも大きな字で大寺餅ありと書いてある。皿には三角な
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