十日間
長塚節
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【テキスト中に現れる記号について】
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「均」のつくり、第3水準1−14−75]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ぶら/\と
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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三月二日、月曜、晴、暖、
起床平日よりはやし、冷水浴、
宵に春雨が降つたらしく屋根が濕つて居る、しかし雫する程ではない、書院の庭にしきつめてある松葉は松もんも[#「松もんも」に傍点]が交つてるので目障りであるがけさは濡れて居るからいかにも心持がよい、庭下駄を穿いてぶら/\とあるく、平氏門に片寄つてさうして戸袋にくつゝいた老梅が一株は蕾がちで二株は十分に開いて居る、蕾には一つづゝ露が溜つてその露が折々松葉の上に落ちる、五片六ひら散つて松葉にひつゝいてるのが面白い、まだ散る頃ではないから大方春雨の板面であらう、空は西の方から拭つたやうに靄が禿げて日の光が竹林の上から斜にさしかゝると、溜つて居る露がかゞやいて落ちるたびにゆら/\と搖れる、子供のするやうに人指し指を曲げてその背へ蕾にかゞやいて居る露をとつて見た、こんな心持のよい朝はない、はやく起きたのが嬉しくつてたまらなかつた、即興の歌が八首、七首は立どころに成つて一首は少し苦んだ、
村の役場へ納めに行く、いま使をやつたのだが逢はなかつたといふのである、この使は納めの催促である、小使の婆さんが安火へ火を入れて呉れた、茶菓子を買ふ、ひつこき[#「ひつこき」に傍点]、ねぢり棒[#「ねぢり棒」に傍点]など、婆さんに少しばかり錢をやる、いらないといふとれといふ、何遍かお辭誼をした、
正午少し過ぎ歸る、
馬方二人筑波下から瓦をつけて來る、
隣村の役場へ納めに行く、赤十字社や色々な雜誌が封じた儘箱の上にのつてある、見るものゝないのがわかる、農業雜誌を借りて歸る、菓[#「菓」に「ママ」の注記]物だの草花だのゝ廣告が面白いからである、
分家の鷄が門の畑の蕪菜を荒すので垣根をゆひ直すそれでも止まない、一つひどい目を遇はしてやらうと思つてぐる/\追ひまはした、分家の厩のうしろの麁朶の中へ一羽逃げ込んだのがある、拔足して行つて棒でしたゝか突いた、空腹を感ず、
けさの歌を麓へおくる、週報の課題が春雨で麓が選者が[#「選者が」はママ]ある、二三日前に七首おくつてあるからこれで十五首になつた、跡からまた五首作つて二十首にしやうと思ふ、
夜父と母と水海道よりかへる、妹の嫁入仕度に箪笥長持などを誂へに行つたのである、手箱、金盥、傘など買つて來た、妹仕立物に忙し、
鷄宵時をつくる、母心配す、
この日綿入一枚を脱く[#「脱く」はママ]、
牛乳二合、
三月三日、火曜、快晴、
起床冷水浴、風が吹くので冷たい、
食慾なし、腹こなしに村外れの畑の中を鬼怒川の土手へ出で一まはりした、十五六町ばかりである、途中鍬を擔いで行くもの三四人に逢ふ、桐の木に止まつて居た鴉が麥の上を掠めるやうにして遙かにさきの木に移つた、そこにも鴉が一羽止まつて居た、低い木であつた、土手の篠笹の中に冬菜のやうな形をした赤い草が地にひつゝいて居た、
朝飯九時過ぎ、
午後、玉村へ行く、皆葉の渡しで薄紅梅の開きかけたのを一輪つまみ取つて船へ乘つた、その蕾を鼻へあてて※[#「均」のつくり、第3水準1−14−75]をかいて居ると稍々傾いた日のさし方で自分の影が船底へ映る、花をつまんだ指と指とが丸い輪をなして映つて居る、そしてそれが舳先の向きやうで小べりへ移つたり水の上へ移つたりして居る、水へ移つた時はゆら/\と搖れる、
北の方には烟がむら/\と立ち登つてるのが見える、藁を燒く節でもないのにと思つてると船頭が火事はどこでしやうといつた、さうして下栗あたりでもあるかなどゝ獨言をした、もうさつきから燃えて居るのだといふことだ、
玉村の材木屋へ行つたら店先に時事新報があつた、
二號活字で横濱市の投票結果が出て居る、島田三郎一一〇六票で當選、加藤高明四一八票で落選、それで奥田と加藤との得點を合せても島田には及ばない、なんだか非常に嬉しかつた、
火事は下妻の中學校であると、かみさんがどつからか聞いて來た、秋山が損をするだらう氣の毒だなどゝ話をする、
歸つて來たのはまだ日の高いうちだが風呂が沸いて居た、風呂の中から窓を明けて見ると木小屋の前がよく片付いて心持がよい母が手づから片付けたのださうだ、百舌が一羽下りて枇杷の枝へ飛んだ、枇杷の花はまださいてゐる、
井戸流しで頭を洗ふ、乾いた手水盥の底に鷄の足跡が二つ、
夕方新聞來る、昨日の分と今日の分と一所である、
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