は以前の姿で働いて居た。然しもう余の部屋へは再び出なくなつた。余は更に此の宿が佗びしかつたのである。春さんは今其風情ある首のかしげやうをして勘定書を出した。春さんが去る時河井さんは合乘を一挺とつてくれといつた。又階子段に足音がする。春さんかと思つたらそれは春さんではなくて宿の主婦さんが剩錢を持つて來たのであつた。河井さんと余とは別に噺もなくて幾分かたつた。車が來た。余は河井さんの後から立つた。さうしてわびしかつた部屋を一遍ふりかへつて見た。二人は臺所を拔けて店先へ出る。帳場に居た主人が土間へおりて挨拶をする。下女も出る。春さんも襷を外して兩手の先に絡みながら時儀をする。河井さんの太つた體は車に隙間をなくした。余の風呂敷包と蝙蝠傘とを春さんが出してくれる。河井さんが一言島原といつた。車夫はへえと首肯いて梶棒をあげる。車が軋り出した時に後に三四人の挨拶の聲が聞えた。斯くして余は烏丸五條の佗びしかつた商人宿を立つた。然し自分ながら余りに突然であつたので何だか殘り惜しいやうな落付かぬ心持もした。外は闇夜である。車は威勢よく東本願寺の前へ出て、廣い通を停車場の方へと走るやうであつた。
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