方へ行く前に居たのは下の部屋で、そこは有繋にさつぱりとして居た。さうして給仕番は春さんであつた。春さんは膳を運ぶ前に必ず余の都合を聞きに來た。其時は障子をそつと開けて、一寸首をかしげて物をいふのであつた。春さんは木綿着物で袖口が幾らか擦れて居た。海老茶の疎い絞りの帶を締めて、萠黄メリンスの前垂をして居る。髮はいつもちやんとして居た。春さんが朝枕元の火鉢へ火を持つて來る時に余は屹度眠から醒めた。其時春さんは能く市中の女に見るやうな紺飛白の筒袖を上張りにして居た。余はぼんやりした眼にいつも其つやゝかな髮を見上げるのであつた。宿には盲目の男の子があつて、能く電話口で大きな聲をして居るのを見た。或晩余は帳場へ用があつて行つた時、其子が頻りに主婦さんにせがんでは春さんの手に縋つて居た。春さんと風呂にはひりたいといつて居る。忙しいからといつても聞かずにせがんで居る。春さんはまだお給仕が濟まぬといつて當惑らしかつた。余が春さんといふ名を知つたのは此の時である。奈良から戻つて見ると余の部屋には何處かの商人がはひつて居た。さうして余は此の二階の汚い一間に案内されたのである。余は變な厭な心持がした。春さん
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