て居ない。坐つた儘見ると太夫は帶から上だけが勾欄の上に出て居る。八文字を踏む毎に、しつかと姿勢を保つた體がゆらりと搖れる。余は勾欄から見るのは丁度山車の人形が車の軋るにつれてゆらぎながら進んで行くやうなものだと思つた。行き過ぎた禿の背には赤地に黒の笹縁をとつた小判形の前垂のやうなものが一杯にさげてある。それには太夫の名が金糸で二重文字に繍つてある。禿が後姿を見せると太夫がゆつたりと現れるのである。一人の太夫を見送つて暫く過ぎると又以前の如き禿が出て太夫が山車の人形の如く我が眼前に勾欄の上を過ぎて行く。一定の間隔をとつて人形の如き太夫は過ぎて又過ぎる。姿勢はどれも同一である。唯髮の結ひやうが違つてきら/\と花簪を一杯に飾つたのがある。化粧は皆胡粉の盛り上げのやうである。余は仲居のおゑんさんの化粧を巧と感服したのであつたが太夫に比しては光を失はねばならぬ。あの支度では體が小さいと支度に負けていかぬ、顏が小さいとあの髮に負けて薩張り引立たぬといふやうなことを余の傍の手代らしい二人が囁いて居る。余は之を聞いてさうかと心に思つた。見物人は皆太夫の姿に見惚れる。向うの埒の内に立つて居る主婦さんは一際つゝましげに見える。空はだん/\低くなつて南風は愈吹募つた。白いホヤを抱かうとする柳の枝が寸時も止まず亂れて居る間に前後十三人の太夫が過ぎた。十三人の次に現はれたのが最後の太夫である。刷物には小太夫と書いてある。此は禿が八人で、八人が皆背に小太夫のしるしをした小判形を垂れて居る。小太夫の髮は獨り異つて後に長く垂れてある。藍色の切で中央を卷いて、赤い裏の厚紙で熨斗形に二個所まで包まれてある。驚く程大きな鼈甲の櫛が只一つ載せてある。此の髮は慥にすべての太夫を壓倒して十分である。帶も裲襠も眩きばかりの錦襴である。五枚の襲ねた衣物の裾が段々に※[#「衣へん+施のつくり」、第3水準1−91−72]を見せて吊り上げられてある。五枚の※[#「衣へん+施のつくり」、第3水準1−91−72]が五色である。五色の※[#「衣へん+施のつくり」、第3水準1−91−72]には更に裲襠の※[#「衣へん+施のつくり」、第3水準1−91−72]が襲ねてある。彼は容貌も態度も他の十三人を壓して見えた。見物人の視線は一齊に小太夫に從つて移つて行く。小太夫が過ぎると後から見物人が船の後を追ふ波の如く道を埋めた。座敷の人々も息をついた。思ひ/\に立つのも尚どつかと坐して居るのもある。少し茫然としつゝ余も立つた。人々と此の家の一間々々を見て歩いた。余はふと茶盆を持つたおゑんさんを遠くから人越しに見た。おゑんさんは余を見て人の間を掻き分けるやうにして來て余に茶を侑めた。おゑんさんの化粧は矢張り巧で且つ美しいのであつた。漸く人々が歸りかける。余はおゑんさんを尋ねて再び逢つた。壬生寺へ行く道を聞いた。おゑんさんはまだ狂言は見られるだらうと、此處からかう裏門を出て千本通をずつと行けばよいと懇に教へてくれた[#「教へてくれた」は底本では「教へてれた」]。余はおゑんさんのいふ通りに千本通といはれた田甫をずん/\と辿る。廓の外はすぐに田甫である。田甫へ出て外から見ると島原は只時代を帶びた地味な一廓であるに過ぎぬ。菜の花が田甫に近く續いて強い南風にゆさぶれて居る。泣き出し相に低い空が西の山々とくつゝいて薄墨をまけたやうに山々を更にぼんやりとさせて居る。山の間へ狹く平地が走つて居る。菜の花は斷續して其平地の限りにぼんやりと見える。白く乾いた田甫の地は吹き立てられて、菜種の葉が一枚々々皆白く其埃を浴びて居る。足もとの溝には水の上にも埃が浮いて居る。前後に人がぞろ/\と歸りつゝある。田甫の遙か先には菜の花の上に甍が聳えて見える。それが壬生寺であらうと思ひつゝ余は急いだ。余は歩きながら太夫のことを心に浮べた。緞子の間で河井さんは此處へ太夫を坐らせればよいのだといつた。道中の姿を見ると太夫が一人でも徒らに廣い座敷は塞るのだといふことを合點した。太夫は全身人工的に裝飾されて居る。然し只一點素肌を見せるのは足の爪先三四寸である。太夫が肌膚を誇らうとする處はこの三四寸以外にはない。墨塗の大きな下駄に乘せて赤い裾から蹴出す足はくつきりと白く且つ小さく見えねばならぬ。さうして太夫は恐らく常人の思ひ知らぬ程其足の爪先に苦勞するのではあるまいか抔と思ひつゝ歩いた。余の前に噺しながら行く二人連がある。能く見ると先刻の手代である。先代の小太夫はよかつたと一人のいふのがちらりと耳にはひつた。余は道中の最後に出た小太夫のきらびやかな姿を思ひ浮べて且つ其先代の小太夫といふのを想像して見た。壬生寺であらうと思ふ甍がだん/\大きく見えて來た。余はふと切な相にゆさぶられて居る菜の花を後にして路傍に一人の乞食が坐して居るのを見た。老年の男の乞
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