菜の花
長塚節
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)目切《めつきり》と
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)花簪を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]して
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ぐる/\と
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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一
奈良や吉野とめぐつてもどつて見ると、僅か五六日の内に京は目切《めつきり》と淋しく成つて居た。奈良は晴天が持續した。それで此の地方に特有な白く乾燥した土と、一帶に平地を飾る菜の花とが、蒼い天を戴いた地勢と相俟つて見るから朗かで且つ快かつた。京も菜の花で郊外が彩色されて居る。然し周圍の緑が近い爲か陰鬱の氣が身に逼つて感ぜられるのである。余は直ぐに國へ歸らうかと思つた。然し余の好奇心は余を二三日引き留めた。それは太夫の道中といふことを土産噺に見物して行かうとしたからである。其間の二三日、余はそここゝと郊外をぶらついた。何處もさびしかつた。仁和寺の掛茶屋に客を呼ぶ婆さんの白い手拭も佗びしさを添へた。明日は道中のあるといふ日の夕方である。余は市中で桐油と麻繩とを買つてもどつて來た。さうして障子のもとで獨り荷造をした。外套や其の他の不用に成つたものを小包にして故郷へ送る爲めである。黄色な包が結び畢つた時一寸心持が晴々した。さうして暫く立てた膝へ兩手を組んだ儘徒然として狹い室内を見渡した。余の部屋は二階の一間で兩方から汚い唐紙で隔てられてある。飾といつては何もない。隣室はどちらも商人が泊つて居る。折々は帳合するのも聞えるが、商人は能く用達しに出掛けると見えて大抵はひつそりとして居る。今もひつそりである。火鉢の藥鑵が僅に夕方の寂寞の中へ滅入る樣に鳴り出した。ランプが點された。筍と蒲鉾の晩餐も出た。低廉な宿料に當て箝めて料理屋から仕出をとるのだといつて此宿の惣菜はいつもかうと極り切つて居る。軈て夜具も運ばれた。余は例の如くランプを持つて火鉢と一つに窓の障子のもとへ居を移す。夜具は室内を占領して畢つた。疎末な夜具の上には友禪の掛蒲團が一枚載せてある。此の一枚の蒲團が宿の余に對する特別の待遇である。余は障子に倚りかゝつて、つく/″\と佗しさを感じながら其派手な模樣を見詰めて居た。下女が慌しく階子段を昇つて來た。西陣の河井さんから電話で只今伺ひますからといつて來たといつた。此の下女といふのは近在からでも傭はれて居ると見えて、田舍臭い一寸聞きとれぬことをいふ女である。余のいふことも解り憎い所があるとかいうて、自分も解らぬことをいうて能く吹き出した。罪はないが快い女ではなかつた。余は直ぐに夜具を片付けさせた。暫くたつて下女はガラスの皿につまらぬ菓子を持つて來た。さうして此邊には何處にも碌な菓子は無いのだといつて又失笑する。河井さんが來た。河井さんは自分の宅へ連れて行くから此處は直ぐに立てといつた。余は突然なのに驚いた。然し再三の勸誘に、余は其好意に從ふことにした。さうして勘定書を命じた。河井さんは今度ふとしたことで知己に成つた人である。階子段を靜かに昇つて來たのは意外にも春さんといふ女であつた。春さんは直ぐに立つといふのを聞いて、意外な顏をして去つた。さうして暫くして勘定書を持つて來た。春さんは時々帳場に坐つて居るのを見ることがある。宿の縁者であると下女から聞いて居る。十八位な可憐の少女である。余が奈良の地方へ行く前に居たのは下の部屋で、そこは有繋にさつぱりとして居た。さうして給仕番は春さんであつた。春さんは膳を運ぶ前に必ず余の都合を聞きに來た。其時は障子をそつと開けて、一寸首をかしげて物をいふのであつた。春さんは木綿着物で袖口が幾らか擦れて居た。海老茶の疎い絞りの帶を締めて、萠黄メリンスの前垂をして居る。髮はいつもちやんとして居た。春さんが朝枕元の火鉢へ火を持つて來る時に余は屹度眠から醒めた。其時春さんは能く市中の女に見るやうな紺飛白の筒袖を上張りにして居た。余はぼんやりした眼にいつも其つやゝかな髮を見上げるのであつた。宿には盲目の男の子があつて、能く電話口で大きな聲をして居るのを見た。或晩余は帳場へ用があつて行つた時、其子が頻りに主婦さんにせがんでは春さんの手に縋つて居た。春さんと風呂にはひりたいといつて居る。忙しいからといつても聞かずにせがんで居る。春さんはまだお給仕が濟まぬといつて當惑らしかつた。余が春さんといふ名を知つたのは此の時である。奈良から戻つて見ると余の部屋には何處かの商人がはひつて居た。さうして余は此の二階の汚い一間に案内されたのである。余は變な厭な心持がした。春さん
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