れさせる位の高さに閾があつてそこには勾欄が造られてある。余の側に居た二人の男が惜いことに此所では太夫の足が見えないといふ樣なことをいつて居る。どこかの商店の手代らしい男である。余は立膝をして覗いて見たが成程往來の土は見えない。往來の向側は板塀で青竹の埒が造られてある。そこにも見物人が立つて居る。塀からすつくり立つたアーク燈の丸いホヤが白く冷た相に見える。昨夜見たのである。其傍に柳は南風を受けてふわり/\と枝が亂れて居る。南風は漸く柳の枝に吹き募つて來る。埃が立ちはじめた。埒の内には人が殖えて來た。座敷の客も殆んど一杯に成つた。後から強い力を以て壓されるので後を見ると人々が皆立つて居る。室内はだん/\騷々敷なつて來た。余の前には幼兒を抱いた一人の女が居た。幼兒は人々の騷々しさにおびえたと見えて火の付いた樣に泣き出した。女は恐ろしく心配さうな顏をしてやつとのこと後へ出て行つた。余は其空席へ進んだ。漸く往來の土が見えるやうに成つた。後から壓す力が強く成るので前の客も立たねばならなくなつた。立つては復た坐る。其度に余は段々前へ進んだ。前が立てば勢ひ後ろから罵る不平の聲が少しく出る。余は立つた時に何か頭へ障つたことを感じた。見るとずつと後に居る印半纏の男が竹の短い竿を二本繼いで其先へ白い手拭をつけて人の頭をそつちこつちと撫でるのであつた。一時はそれでも落付いた。さうして又立つた。ぼく/\と頭へ當るものがある。驚いて見ると隣に居た男がひよつと頭を引つ込ませて此も不思議相に後を見る所であつた。風呂場の掃除をするタワシでもあらうか、竹の先へ棕櫚の毛を束ねたのを以て以前の印半纏の男が立つてる人々の頭を端から端へと叩くのであつた。拍子木の音が遠くやがて近く往來から響いて來た。室内が靜まつた。余の肩へそつと觸れるものがあるので見ると、仲居のおゑんさんが折つた紙を渡さうとするのであつた。おゑんさんは愛嬌作つて會釋しながら人を分け/\出て行つた。何かと思つて開いて見ると薄墨の木版刷で太夫の名が連ねられてある。上下二段である。余の側の手代らしい男が覗き込んで上の段だけが道中に出るのだといつた。拍子木が復た遠くから近くへ響いて來た。客は更にひつそりと成つた。空は曇つて南風は愈吹き募る。冷然として居るアーク燈の白いホヤを、しどろに亂れかゝる柳の枝が長い手で時々抱かうとして居る。客は皆退屈相に成つた。それでも向うの埒の内の見物人は極めておとなしく立つて居る。其なかに年増の主婦さんらしいのが一人居る。最初から極めてつゝましく立つて居る。室内の騷々しさをすぐ眼前に見て微笑することも無くつゝましくして居たのである。尤も此の主婦さんの身にとつたならば埒の内に立ち盡して居ることが多勢の前に曝されて居るやうな心持であるかも知れぬ。余は其つゝましい主婦さんと、其頭の上に縺れて居る柳の枝とを見守つた。余が坐に就いてから時計を見ると三時間も過ぎ去つた。三度目の拍子木が近く響いた。もうすぐだと手代らしいのが囁いた。表の勾欄の左の端にすつと人物が現れた。此の廓の藝子といふのが七八人、紅白の綱で、造花の山のやうに盛つた花籠の車を曳いて來たのである。極めて徐ろに足を運ぶ。花籠は表の勾欄の上を微動しながら過ぎて行く。此が先驅であつた。間が暫く途切れる。勾欄の外れへ小さな禿が二人ならんで現れた。態とらしい化粧と懷手をして左の肘を張つて足もと危く然かも勿體らしく歩を運ぶ處とは滑稽で又可憐である。禿が座敷の前へ來ると、勾欄の端に太夫の姿が現れた。前で結んで兩方へ張つた錦襴の大きな帶と、刺繍の裲襠とが目を射る。萠黄の法被を着た老人が後から長柄の傘をさし挂けて居る。傘には太夫の定紋が大きく描かれてある。傘の下には極端に裝飾された太夫の首が造り付けられた樣に前面を正視して居る。思ひ切つて大きく結うた髮には鼈甲の大きな簪が十七本、下へ向け上へ向け左右から刺されてある。丁度熊手のやうであるといへばそれが却て適當した形容であるかも知れぬ。厚化粧は盛り上げの如くである。目は威嚴を保たうとする如く寸毫も他に轉ぜぬ。此も懷手をした左の手が肘を張つて居ると見えて左の袂が突つ張つて居る。右の手は結んだ帶の下へ隱してある。裾はきりつと吊り上げてある。裾からは赤い長襦袢が踵を覆うて垂れて居る。余は立膝をして太夫の足もとを見た。太夫は長襦袢の裾から墨塗の大きな下駄を蹴出す。からりと外から大きく地をすつて立てた足の爪先へ斜に据ゑる。暫く過ぎて眞直に向け直す。又暫く間を置いて別の足を蹴出す。八文字を踏むといふのは此だと余は心に合點した。下駄は二個所斜に鋸を入れてあるので丁度三枚の齒があるやうに見える。手絡にするやうな赤い切の緒で、そこに小さな白い足が乘せてある。蹴出す度に赤い裾から白い足の爪先が三四寸見える。足には足袋を穿い
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