は後の障子を開けて外を見た。往來を隔てゝ高くアーク燈が立つて居る。其丸いホヤから四方へ投げ出す強い光であたりが煌々として居る。アーク燈の傍に大きな柳が一株すつと立つて枝を垂れて居る。樹は嫩葉を以てふつくりと包まれて居る。ホヤに觸れるばかり近い枝は強い光の爲に少し白つぽく見える。陰翳をなして居る所が却て青い。さうして總てが刺繍の如き光を有して居る。アーク燈の光を翳して見る闇い空は天鵞絨の如く滑かに見える。余は其形容し難い空の色彩に見惚れた。河井さんは此の空の色を葡萄紫だといつた。蛙の聲が錯雜して遠いやうに且つ近いやうに響いて空に浮んで聞えて居る。仲居のおゑんさんが階子段から呼ばれて去つた後に別な仲居が代つた。おゑんさんよりも年は少いが痘痕のある品下つた女である。おせいさんといつた。おせいさんは騷ぐ方の女である。ふと聞くとしんとした往來から下駄を引き摺るやうな響が輕くからり/\と聞えて來る。快い響である。河井さんは太夫が來たのだといつた。余は表を見下した。格子に遮られて能くは見おろせなかつた。きら/\と光るのは花簪である。アーク燈の光を一杯に下から反射する花簪は柱の蔭に居た太夫のよりも立派に見えた。からり/\といふ輕い響と共に花簪が移り行く。さうしてすぐに廂に隱れてしまつた。其時衣物のだんだらであるのがちらりと目に着いた。河井さんは太夫の下駄はこんなに大きなのだと手で形を造つた。此の位はありますと仲居のおせいさんも手で形を造つて見せた。太夫が客の前へ坐つて裲襠をすつと脱ぐ處は風情のあるものだと河井さんはいつた。それから先刻の太夫のはあれは略裝だといつた。春の夜はまだふけなかつた。然し其夜はそれで歸つて來た。おせいさんが余の荷物を持つてくれた。車は二臺であつた。下駄が爪先を揃へてある。荷物を蹴込へ入れた時はじめて荷物が自分へ返つたやうな心持がした。車は又闇夜を走つた。余は今夜の家が揚屋といふものであつたことや夜の淺いにも拘らず土地柄にも似合はずしんとして居たことの不審なことや、ちらりと見た二人の遊女のことや思ひ挂けなかつたことを心に描きながら闇夜の間を運ばれた。二條の城であらうと思はれる白壁が見えて軈て車は何處も同じ樣な町の或軒下へ着いた。

      三

 翌日河井さんは余の爲めに車をとつて呉れた。自分は河内國から來る商人を待合せる約束なので遺憾ながら行けないといふ
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