は以前の姿で働いて居た。然しもう余の部屋へは再び出なくなつた。余は更に此の宿が佗びしかつたのである。春さんは今其風情ある首のかしげやうをして勘定書を出した。春さんが去る時河井さんは合乘を一挺とつてくれといつた。又階子段に足音がする。春さんかと思つたらそれは春さんではなくて宿の主婦さんが剩錢を持つて來たのであつた。河井さんと余とは別に噺もなくて幾分かたつた。車が來た。余は河井さんの後から立つた。さうしてわびしかつた部屋を一遍ふりかへつて見た。二人は臺所を拔けて店先へ出る。帳場に居た主人が土間へおりて挨拶をする。下女も出る。春さんも襷を外して兩手の先に絡みながら時儀をする。河井さんの太つた體は車に隙間をなくした。余の風呂敷包と蝙蝠傘とを春さんが出してくれる。河井さんが一言島原といつた。車夫はへえと首肯いて梶棒をあげる。車が軋り出した時に後に三四人の挨拶の聲が聞えた。斯くして余は烏丸五條の佗びしかつた商人宿を立つた。然し自分ながら余りに突然であつたので何だか殘り惜しいやうな落付かぬ心持もした。外は闇夜である。車は威勢よく東本願寺の前へ出て、廣い通を停車場の方へと走るやうであつた。

      二

 車は更にぐる/\と廻り/\行くやうであつた。暫くするうちに容子の變つた處へ出たやうに思はれた。それでそこもひつそりとして居た。河井さんが一寸車夫に掛聲をすると車は少し威勢が出た。さうして轍ががら/\と敷石を軋つたと思つたら直ぐに輓棒がおろされた。玄關へ上る。余は車夫が出して呉れた風呂敷包と洋傘とを手にした儘立つた。一人の婆さんが出て河井さんと何かいうた。河井さんは直ぐに左手の大きな間へはひる。余も後からはひる。荷物を入口へ置いて中腰に坐つた。其處はがらんとした大きな部屋である。一帶に煤びて居る。明りがきら/\と光るにも拘らずぼんやりとして居る程煤びた大きな部屋である。向うの隅の方には菰かぶりの酒樽が立てならべてある。中央でさうして一方の壁に近く非常に太い柱がある。余はすぐに其柱の蔭に派手な衣物のなまめかしい女が一人坐つて居るのを見た。河井さんは太夫を見たことは無いかといつた。余はないといふと河井さんはつと立つて其女の手を執つた。女は片手を執られた儘時儀をするやうにしとやかに前へ屈んだ。幾ら手を曳いても立たうとしない。柱の蔭に成つて居た髮が前へ屈む度にともし灯の光に觸れる。さ
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