不快な宿を遁げるやうに立ち去るのが旅中幾十日の習慣になつて居たからであつたらう。然し兎にも角にも昨日の浦を見おろしながら美人と噺をした。其噺は飽氣なかつた。惜しいはかないやうな思が心の底に潛んで居る。牡丹の花のうらを返して見ると金糸銀糸は亂れて居る。余が美人を憶ふ時には心に幾分の亂を生ずる。其心の亂れは刺繍の金糸銀糸が亂れて居る如く只美しくあるべき筈の亂れである。余はかういふ想に耽りつゝ船が磯へ掻きあげられるまで荷物と草鞋とを手に提げたまゝ呆然として立つて居た。水夫の濯いでくれた草鞋はすつかり乾いて居る。佐渡の形見として余の手に殘つたものは小木の宿屋の美人がともし灯のもとにゆかしがつた手帖の間の※[#「王+攵」、第3水準1−87−88]瑰の花と此の草鞋とのみである。草鞋も小木の美人が槌で叩いてくれた草鞋である。紺飛白の裾から白地の覗き出した美人の姿がすぐに眼前に浮ぶ。然しそれはもう過去の記憶である。現在のものは此の草鞋のみである。歩いて/\底が拔けて足のうらが痛くなつてならぬまでは此の草鞋は穿き通して見たいやうに思ふ。草鞋の底が拔ければ髮の毛の亂れのやうに藁が兩方へ喰ひ出す。それでもぎ
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