、大きな荷物の上から掛けましても荷物が濡れんやうに出來て居りますのでございます。博勞さんは頭から冠りましても泥を引き擦るやうになりますので簑が歩くやうだと申してみんなが笑ひましたのでございますと女は思ひ出して堪らぬといふ樣に笑つた。余は思はず女を見ると女も同時に余を見た。見た目にはまだ笑を含んで居る。余等は二尺計に開けた雨戸の間から躰の擦れ合うた儘外を見て居たのである。向き合うて見るとあんまり近いので急に何だか面ぶせに感じたので余は視線を逸らして其口もとを見た。口には鮮かに紅がさしてある。余は此の如き場合の經驗を有して居らぬので只兀然として女のいふことを聞いて居るのである。女は只無邪氣に耻らふ所もないやうな態度である。それ丈余は更に平氣で居憎い氣持がした。譬へていへば女は凌霄《のうぜんかづら》である。凌霄はふしくれ立つた松の幹でも構はずに絡みかゝる。松の幹がすげなく立つて居てもずん/\と偃ひのぼつて枝からだらつと蔓を垂れて其處に美しい花を開く。其花は此女が一つ噺をしては又噺をするやうに落ちては開き落ちては開いて自ら飽くまでは其赤い大きな花が咲いて止まぬ。余は自ら凌霄にからまれた松の幹のやうな感じがした。凌霄のやうだと思ひながら復た女を見ると此度は四本の指を前へ向けて勾欄へ兩手を掛けて一心に燒木杙を見おろして居る。余は其白い横顏をしげ/\と見守つた。さうして此優しい靜かな昨日の浦を前にして何時までも只立つて居たいやうな心持がした。其時丁度帳場で呼ぶ聲が幽かに聞えた。飽かぬ美人は三階を去つてしまつた。余も二階へ還つて冷え切つた茶を啜つた。
 兩掛《りやうがけ》の荷物を手に提げて梯子段をおりて行くと女は既に洗濯してすつかり乾かした脚袢を出してくれた。底の拔けた足袋も一所に置いてある。足袋にはまだぬくもりが殘つて居る。今まで火へ翳して乾かしてあつたに相違ない。女は更に土間へおりて新しい草鞋の紐を通して小さな木槌で其草鞋をとん/\と叩いて呉れた。さうして余の後ろへ廻つて兩掛の荷物の上から※[#「蓙」の左側の「人」に代えて「口」、361−14]を着せてくれやうとする。然しこの着せて貰ふことだけはしなかつた。何故だか默つて着せてもらふことがしえなかつたのである。其時の心持は後では自分にも分らぬ。※[#「蓙」の左側の「人」に代えて「口」、361−16]だけは昨日の雨でぬれた儘|強《こは》ばつて居る。草鞋の代が幾らかと聞いたら此は一足進上するのであるから代は要らぬといふことであつた。女は又赤泊の街道へ出る處まで教へてくれるといふので二三町余と共に跟いて來た。電信柱から左へ曲ると此からは一筋道で赤泊より外には何處へも行きやうはないからどうぞゆつくりお越しなされと辭儀をする。余は此時もしみ/″\美人だと心に深く思ひながら女の姿を見た。
 街道は磯へ出る。薄霧の中に越後の彌彦山が眞向に見えてそれから南へ下つて稍遠く米山が見える。共に大きな島の如くに聳えて居る。海は極めて平らな※[#「さんずい+和」、第4水準2−78−64]である。沖の岩のめぐりに纔に動く波が日光を受けて金の輪を嵌めたやうにきら/\と光る。汀に近い蕎麥畑には蕎麥の花が眞白に咲き滿ちて居る。さら/\と輕くさし引く波が其赤い莖のもとへ刺し込んでは來ないかと思ふ程汀に近い畑である。

      三 南瓜

 街道は小山の間に入る。羽茂川に添うて行くと少しばかりの青田があつて青田へは小さな瀧が落ち込んで居る。瀧の側からは杉の大木が聳えて其杉の木には蝋が流れたやうに藤の實の莢が夥しく垂れて居る。丁度そこへ來かゝつた老人が頻りに合掌して其瀧を拜んで居る。余は此老人に大崎はまだ遠いかと聞いたらウン此かこれは御來迎の瀧だといつた。老人は耳が遠いのである。大崎の博勞の家はまだ遠いのかと大きな聲でいつたら老人はにこ/\笑ひながら此から少し先へ行けば大崎になる。牛でも買に來たか、まだ二十にはなるまい、能う來たのうといひ捨てゝ去つた。羽茂川に添うたまゝ街道は狹い峽間になる。路傍に大桶へ箍を打つて居る桶屋があつたので聞いて見ると博勞の家ならば後へ戻つて坂の上の高い所に見えるのがさうだといつた。桶屋のいふまゝに戻つて見ると住み捨てた大きな草家の側に坂がある。坂をのぼり切ると二本の梨の木が兩方からすつと空へ延びて其梨の木には梯子が掛つて居る。梨の青い葉がばら/\と散らばつて居る。博勞は丁度日に近い縁側に足を投げ出して梨を噛つて居る所であつた。余の姿を見ると能う來たのうと例の大口を開いて反齒を剥き出しながら驚いたといつたやうな顏をしていつた。彼と夷の港の宿屋で別れたのは四日前である。別れる時に若し自分の土地へ通りかゝつたならば立ち寄つてくれと彼はいつた。余は屹度と誓つた。彼は其後毎日他出をするのであるからあとへかう
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