余の指からは血が少しにじんで居た。小さな水田のある所へ出た。小山の上であるから水田といつても籾の筵を五六枚干した位しかない。荷物は其田の畦へ捨てゝ博勞の導く儘に木に縋り乍ら行くと瀑の落口へ出た。瀑は此の田の傍を走る巾二尺ばかりの流の水である。大きなしなの木が瀑の上から谷へかけて斜めにさし出て居る。小柄な博勞は猿の如くすら/\としなの木の梢にのぼつた。余もつゞいて登つて見た。二人の重量で梢はゆさ/\と搖れる。足のうらは直に深い谷で恰も宙に乘つたやうな感じである。此の深い谷の向の瀑に相對した處はさつき瀑へおりた山腹でびつしりと蕎麥の花がさいて居る。一帶に山々は蕎麥でなければ豆が作つてある。然らざれば茫々たる芒である。博勞のいふ所によると「山を墾《は》り倒いて置いて枯れた所で火を點けてそこへ蕎麥でも豆でもばらつと撒いておくのだといふことである。さう思へば蕎麥の花の中には焦げた木が所々立つて居る。宙に乘つて見おろす瀑は上部の僅かゞ見えるだけである。此の瀑は孰れにしても厄介な瀑であるといはねばならぬ。瀑を後にして行くとすぐに小さな池がある。池には太藺が茂つて其下には盥を伏せた位な小さな島の形がある。此島といふのは由來のある島なので此小さな島から不思議にも清水が湧いて出るがいくら旱でも此の水だけは決して乾かぬと博勞がいつた。更に博勞が語る。此の池のほどりで一人の山伏が咒文を唱へて居たことがあつた。其時丁度牛を曳いて草刈に來て居た子供等が其咒文を聞いて居たことであつたが山伏が去つてから牛の荷鞍を卸して其荷鞍を叩きながら山伏の眞似をして呶鳴つて居ると荷鞍が草の上から踊り出して其儘水中で島に化してしまつたといふ其荷鞍の島はこれである。
五位鷺が一羽おりて太藺の蔭にぢつとして居る。折柄俄雨が一方から水面を騷がしてさあつと降つて來た。鷺がすうつと飛び出して岸から垂れた小枝へ移つた。雨の脚が過ぎると水面は復た一方から靜かになる。汀には木の葉の滴りが水に大きな輪を描いて水馬が小さな輪を描いて居る。
五 漁村の能
俄雨のあとの草にはきら/\と日の光がさす。兩方から小徑を埋めて傾いた芒の穗を蓙ですつて行く。博勞の跳ね返した穗が時々ひやりと頬へあたる。だん/\小山の頂を行くと芒の穗の上に海洋が表はれてやがて一目に見えるやうになつた。海洋は日光のさし加減と見えて只紺碧である。あな
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