叱りつけるやうにいつた。老人は極りわるげに船の底に蹲つた。雲が一方からだん/\に禿げると三角に握つた握飯のやうな金華山が頭から押へつけるやうに聳えて居る。中腹の神社から下には鋏で梢を刈り込んだやうな木立が青い芝の間に鹽梅されて庭園の如く見える。常盤木の繁茂した山上には綿打ち弓から飛ぶ綿のやうな雲がちぎれて居る。船が岸へつくと道者は一同に漸く生き返つたといふ鹽梅で「船ぢや我折《がを》つたやア」といひながらばら/\と勢よく馳けあがつた。青い芝は地にひつゝいた樣になつて居て糸薄の草村が連つて居る。道者は口々に鹿々と呼んだら思はぬ糸薄の中から大きな角が動いて鹿が五六匹あらはれた。土産を出して見せると五六尺の近くまで寄る。こちらから更に近づくとついと逃げる。投げてやればたべる。一行の旅裝が黄色な桐油を掛けたり笠をかぶつたりして居るので氣味が惡いのであらう。鹿が煎餅をたべる所を道者が三四人で手と手をつないで鹿を坂の下へ追ひつめようとしたが鹿は輕く飛び退いてけろつと立つて居る。道者はこんなことをしては騷いで船の中に居た時とは別人のやうである。よく見ると鹿は糸薄の中にそこにもこゝにもけろつとして立つて居る。其斑紋の美しいことは奈良の鹿などの到底及ばぬ所である。顧れば一行の乘つて來た船は追手に帆を揚げて雨の中に遙かに隔つて居る。木立にはひると庭木のやうに見えたのは皆二抱三抱の樹ばかりであつた。
雨はしと/\として深更までもやまぬ。厠へ立つたら目の前をひらりと飛ぶものがあつた。驚いて見ると鹿である。手を出したら鹿は指のさきへ鼻づらをこすりつけた。
九月一日
▲猿
社務所から出た一行十人ばかり白衣の先達に案内されて金華山を登る。坂が極めて峻しい。曉の霧がひや/\と梢を渡つて雨がはら/\とかゝる。老樹の鬱然として濕つぽい間を行くので深山のやうな淋しい心持がする。忽ち後の方で猿々と呶鳴るものがあつたので振りかへると一行のうちの三四人が立ちどまつて梢を仰いで居る。余も急いでおりて行つて見ると五六匹の猿が樅の喬木に枝移りをして居る所であつた。猿はゆさ/\と枝を搖しながら四つ足を立てゝこちらを見おろして居る。赤い顏がほのかに見える。余は猿の樹に居るのを見たのは此がはじめてゞある。からかつても見たい樣な氣もした。一行のものは皆樹の下へ集つて口々にオンツアマ、オンツアマと呶鳴つて手を叩
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