行き過ぎやうとすると女房があとから呼びかけてお山へ渡るなら草鞋を買うて鹿の土産を持つて行けといつた。此れはお山の砂を草鞋へつけて來ることは昔から禁じてあるので島へ渡るものは皆新しい草鞋を穿いて、もどりの船に乘る時にはぬぎ捨てる筈だ相である。鹿の土産といふのは小さな煎餅の括つたのである。渚へおりると船頭小屋には四五人で榾火を焚いて居る。客が集らねば船は出さないといつて一向に取り合はぬ。小船が一艘動搖しつゝある。雨が降つて來た。突兀たる岸の巖には波がだん/\強く打ちつけて小船が更に動搖する。雨が大粒になつた。幻の如く見えた金華山は復た雲深く隱れて裾だけが短く表はれた。山の裾はなつかしい程近い。桐油を着た道者がぞろ/\と余の後からおりて來た。各自に背中を高くして小荷物を背負つて居る。一行の饒舌るのを聞いて船頭のうちの老人が一行のものを米澤ぢやないかといつた。米澤の山の中だといつたので言葉でどこのものでも分ると老人は頗る得意である。道者が來ても船はまだ出さうともせぬ。海がだん/\惡くなり相なので何故出さないのだといふと此日の渡しは此れ限りなので金華山から鮎川へ酒買に渡つたものが戻るまで待つて居るのだといふのである。鮎川に二人で酒を飮んでるのがあつたがあれなら迚ても今日のうちには歸り相はないと道者の一人がいつた。遂には船頭も待ちあぐんで一人が南京米の袋をかぶつて出て行つた。所がそれも沙汰がない。屹度あいつも引つ掛つたに違ひない。呑氣なにも程があるといつて道者等が頻りに呟いて居る。幾ら待つても島の酒買は來ないのでやつとのことで船が漕ぎ出された。三人が艪を押して舳の一人が櫂をとる。巉巖に添うて船が進む。鹿渡しの岬に近づくと波は澎湃として船が思ひ切つて搖れる。岬に打ちつける波は花崗岩の如き白い柱を立てる。北方に開けた海上には江の島列島が大小相並んで狹い瀬戸の間から見える。列島は彼の穗に隱れては復あらはれる。桐油を頭からかぶつて余と向き合ひになつてた男は目がどろつとしてさつきから下唇が垂れた儘であつたが遂に桐油でぐるつと顏をくるんで轉がつてしまつた。他の道者も顏が眞蒼になつて小縁へしがみついた儘反吐をついて居る。老人の押して居た艪は艪べそが外れた。老人は狼狽して嵌めやうとしたが船の動搖が激しいので幾らあせつても嵌らぬ。止めろ/\いゝや/\ニ兩肩からうんと力を入れた男が聲にも力が籠つて
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