昇つて欅の木の梢からおすがの庭を照して居る。庭の柿の木は葉がきら/\と濡れたやうに月光を浴びて居る。空は見るから涼しげであるが一日照りつけた太陽のほとぼりはまだ蒸してどこの蔭へ行つても怺へられぬ程である。かういふ時はどこの家も開け放しである。おすがの家は煙がこもつて其煙が廂を傳はつて靜かな夜の中へ彷徨つて行く。晝間から呼ばれて來て居る村の親族が四五人で此の喉のつまるやうな煙の中に坐つて酒を飮んで居る。家のものは忙しく働いて居る。今祭の饂飩を打つて居る所なのだ。男は裸である。女も襦袢一つである。竈の前ではおすがゞ饂飩を茹でゝ居る。釜がぶうつと泡立つてこぼれ出すと大急ぎに手桶の水を一杯注ぐ。泡は忽ちに引込む。茹だつた饂飩は叉手《さて》で揚げて手桶へ入れて井戸端へ行つて冷たい水で曝して「しようぎ」へあげる。「しようぎ」といふのは極めて淺く作つた大きな籠である。籠といふよりは笊の大にして淺きものである。井戸端で少し暇どると饂飩を裁つて居る男があとが出來たと怒鳴る。こんなことでおすがには少しの隙もない。其竈の煙が家一杯にこもつて居るのである。お安が兼次を連れておすがを誘ひ出しに來たのは此時である。兼次は竹藪の蔭へ潛ませてお安は用のある振で行つて見たが全く隙がない。兼次は我慢をして居ればよいものを蚊には螫される。足には痺れがきれる。もどかしく成つて遂そこらをうろついた。其姿をちらりと家のものが見た。兼次ならどうも飛んでもねえことだと、熬豆をかじりながら饂飩をすゝつて居た親族のものはさつきの酒がまはつて居るので下駄を穿いて出だすのもあつたBお安が折角やきもきしても此夜は目的を達することが出來ずにしまつた。内儀さんはそれでは自分のうちへ呼んで逢はせるやうにでもしてやらうといつて居ると二三日たつて兼次はおすがの家で捉まつたといふ噂がはやくも聞えた。内儀さんの苦心もなにも滅茶々々に成つてしまつて事件は又もとへもどつて了つた。
「なんちい馬鹿だんべえなあ」
 とお安はいま/\しがる。外の人々は腹が立つといふよりは呆れて物がいへなくなつた。
 其うちに笑止しな出來事が起つた。祇園が過ぎてから十日ばかりたつてからである。或朝親爺は
「兼、今から仕度しろ、われ見てえなものはおらぢへは置けねえからどこへでもうつちやらなくつちやなんねえ、一緒に行け」
 と親爺は兼次を連れて出た。お袋は餘りの突然なことにあとで獨りで泣いた。晝近くなつて兼次はひよつこり歸つて來た。どうしたのだと聞くと境街道へ連れられて二三里も行くと
「われがことはこゝでうつちやんだ。境へ行くなら此れ眞直だ」
 といつて小遣錢をくれて放されたのだといふ。それで親爺の姿が林の角に隱れた時に自分は林傳ひに先廻りをして來たのだといつた。
 お袋は仕方がないから暫く親類にでも厄介に成つて居ろといつて自分の巾着をはたいて兼次を出してやつた。親爺は晝過になつて歸つて來た。お袋は
「おら兼こと可愛いからあとで泣いたよ」
 とつく/″\いつた。此のお袋が今日まで家内に風波を起さないのはおとなしく我慢をして居るからなので、嘗ては怨みがましいことをいつたことは無かつたのである。

         六

 此の事のあつてから幾らもたゝぬ内におすがの姿も村には見えなくなつた。兼次が連れ出してしまつたのである。能く/\聞いて見ると此もおすがのお袋が一つで旅費までやつたのだといふことだ。彼等は兼次の叔父が聟に行つて居る栃木の在《ざい》へ辿りついた。叔父は國元へ手紙を出した。返事は至極簡單で只捨てゝ置いてくれとあつた。さうかといつて其儘にはおかれぬわけで叔父は遙々相談に來た。然し卵屋は前段の始末で手のつけやうがない。それから村に居た時分に懇意にした博勞の伊作の處へ行つたがおすがの家でも親族や兄が不服なので駈落するやうな不埓なものはもどすことは出來ないといふことであつた。叔父もそれでは自分が暫く預つて置くことにする外はないと兼次のことに就いては深い骨折をしてくれた四つ又にも逢つて此後とも一切の心配を頼むといふやうに云ひ置いて三日ばかり暇どつて歸つた。叔父のもとでは二人は甚だ愉快な月日を送つた。雜木林を借りて木の根を掘り起してそこへ作つた陸稻をたべた口には栃木在の米は實にうまい。おすがの家には土藏まであるがそれでも日常は石臼で挽いた麥を交ぜた飯をたべて居る。百姓の生涯の希望は大抵鹽鮭を菜《さい》にして米の飯をくふやうに成つて見たいといふ以上はないといつてもいゝ位である。叔父の家は暮しがゆるやかであつたので彼等が口腹の慾を滿足させるには十分であつた。少くとも兼次には叔父が肉身であることゝおすがゞ一緒であることゝで薩張もう苦勞はなかつた。おすがは兼次について居るので幾らか肩身の狹い心持はするが辛いことはちつともなかつた。彼等は精一杯働いた。叔父も忙しい時に思ひ掛けぬ手が殖えたので窃かに悦んで止めておいた。秋がふけた。さうして稻刈の時節になつた。故郷では俎板へ鼻緒をすげたやうな「ナンバ」といふものを穿かなければ刈れないやうな深田もあるが、こゝでは草履穿きで稻刈が出來る。田の中で稻扱をする。仕事がどれでも愉快である。赤城の山に雪が積んで冬が來た。其時彼等二人の間にはぢつとして居られぬ心配が湧いた。其心配といふのは改まつてのことではないが此頃に成つてどうにもしやうがなくなつたのである。駈落する以前からおすがは身持に成つて居た。おすがも初は我慢をして居たが此頃では體が兎角大儀になつた。叔父も疾からそれは知つて居るが百姓をするものは明日分娩する其晩まで跣足で仕事をする位のことは普通であるのだからそこは少しも苦勞はないのと一つは愈々腹がか、だからといふ時に返してやらなければ彼等雙方の家で仲々引きとるのに故障をいふだらうといふことでおすがには成るたけ樂な仕事をさせて止めて置いた。冬も寒が來て田甫の榛の木には春の用意に蕾がふら/\と垂れはじめた時にもうこゝらでいゝと思案をして叔父は二人を返してよこした。博勞の伊作へも手紙をつけ又四つ又へもこま/″\と自分の筆の立つだけは書いた。其は自分が行かねば濟まぬわけだが、かういふ日蔭ものを連れてのこ/\村へはひることも極りの惡いことだによつて二人だけ返すのだがどうか惡く思はないでどんなにでもいゝから心配をして貰ひたい、後で卵屋が愚圖々々いふ時にはわしがそこは引きうける。若し只今にも自分が行かねば駄目といふなら葉書をくれゝば直にも飛んで行くからといふのであつた。二人はどこへも手頼る所がないので四つ又の家へ轉がり込んだ。四つ又も困却したが乘つた船で止むを得ない。先づ伊作へ談じて見たがどうも只ではおすがも戻れない。思案の末におすがの家の前の仙右衞門へ少しの間といつておすがを頼んだ。一つは仙右衞門の家は廣い割合に少勢であるのと一つはすぐ前のうちへ置いたならば朝夕おすがの姿を見るうちには兄貴もさう六ケ敷ことばかりもいはれなくなるだらうしお袋が愚固だから誰も因業もいつては居られまいといふ見込をつけたのである。おすがの身の處置をつけて四つ又は卵屋の方へ手を出した。四つ又は隨分此の事件では厄介な役目であるが、四つ又でなければ出來ないと村からいはれて居るのが心中窃に自慢なのである。或晩遲く彼は卵屋へ行つた。此頃は毎日村のどこからかとん/\と箱篩《はこふるひ》の音が竹藪を洩れて聞える。田舍の正月が近づいたので其用意に蕎麥や小麥や蜀黍の粉を挽くのである。卵屋でも此晩蕎麥粉を挽いてる所であつた。お袋は顏から衣物から埃のやうに粉を浴びて莚の上で箱篩の手を動かして居る。親爺は癲癇持の太一と二番挽の糟を挽いて居る。四つ又はくゞり戸開けてはひるとすぐに石臼へ手を貸した。石臼はぐる/\と輕くめぐる。
「寒い思して態々|節挽《せちびき》の傭に來たやうなもんだな」
 と四つ又は笑ひながらいふ。
「當てにもしねえ傭が出來ておれは此れだからうめえな」
 と卵屋も相槌打つて勢よく然かもそろ/\と石臼をめぐす。暫くで蕎麥の糟は全く穴へ掻き込み畢つた。石臼は其儘幾つかごろ/\とめぐして此れで蕎麥挽はやめた。お袋は箱篩の手を止めて上り框《がまち》の冷え切つた火鉢へ粗朶をぼち/\と折り燻べた。煙が狹い家に薄く滿ちた時に火鉢へは燠《おき》が出來て煤けた鐵瓶がちう/\鳴り出した。
「構はねえで篩つておくんなせえ」
 と又四つ又はお袋へ挨拶する。
「篩ふなあしたでもえゝんでがすから」
 とお袋は石臼臺の粉を桶へ移して筵を掛ける。親爺は裏戸口の風呂で暖まる。
「篦棒に寒い晩だなどうも」
 と又四つ又は火鉢へ手を翳す。
「雪がちら/\して來たから寒い筈だ」
 と卵屋は湯から出て土間で褌をしめながらいつた。さうして
「茶よりや蕎麥掻でも拵えろな、腹あつためるにや蕎麥掻の方がえゝや」
 といふと
「蕎麥掻はえゝな、そんだが鰹節はなにか土佐節か」と四つ又は啄を容れる。
「へゝたえしたことをいふな、何處で聞いて來た」
「どこつておら土佐節でなくつちや喰つたことあねえんだ」
 百姓の家に松魚節のあらう筈はないのである。四つ又はこんなことでそろ/\戲談から口火を切る。鐵瓶の湯が沸つたのでお袋は二つの茶碗へ箱篩から附木《つけぎ》で蕎麥粉をしやくつて移す。鐵瓶の湯を注いで箸で掻き交ぜる。お袋は小皿へ醤油を垂らして出す。
「こら饂飩粉ぢやあねえかあんまり白えな」
「四つ又もちつと眼がチクになつたな。そりや一番粉で糟がへえらねえだ。甘かんべえ」
「うん、ずうつとかう喉からほか/\して來たな」
 蕎麥掻の茶碗へ湯を注いで四つ又はふう/\吹きながら飮んで愈々噺を持ち出した。
「おれが云ふことはもう聞き飽きたんべ、おれも呆きれた。そんでも此んでも聞いてもらあなけれやあなんねえんだ」
「又兼が噺か、その噺ならしねえでもれえてえ」
「それだからおれが聞いてくろうつていふんだよ。おすがの腹がえかくなつて今落ち相になつて歸つて來たんだが、どうも此までとは違つてこんだあ捨てゝ置けねえこつたから向の親類でも困つてんだ。おすがも五六日こつち小便も近くなつたといふんだから今夜にもあぶねえんだ。それがうちへ寄せられねゝえんだから今出來る子供の産す場所がねえ譯なんだ。此所のところはまあどうしたもんだな」
「どうするつておら駄目だよ」
「まあようく考《かんげ》えて見てくんねえか、自分の息子が人の大事の娘を引張り出して隨分世間へも外聞を曝して揚句の果が孕ませてそれでこつちゞや嫁に貰ふことも出來ねえが、趣意もつけられねえ腹の子供がどうなつてもえゝつて云ふんぢや向の身に成つても隨分酷かんべと思ふんだな」
「趣意なんざあ文久錢一文でもおら出せねえよ。向で欲しけりやおら兼の野郎呉れつちやつて構あねえ。おら相續人なんざあ外から養子したつてえゝと思つてんだ。おら旦那にいはれたつて聽かねえから駄目だ。旦那に怒られて村に居られなくなりや居らねえたつて構はねえんだから」
「酷くわからねえんだな」
 遉の四つ又も逐にはむつとしてかういつた。卵屋はもう目の玉まで火のやうに赤く成つて居る。
「そりやおれ惡るかんべえ。惡くつたておらさうかたあ云はねんだから、どうぞおれげは其の噺はしねえでくろ」
 といひながら火鉢の向へごろりと轉がつて何とも返辭をしない。胸には激しい動悸が打つて居る。豆ランプの薄闇い光が其燃えるやうな顏をてらして居る。四つ又は手持不沙汰にして居たがやがて裏戸口から小便に出る。雪はいつの間にか地上一杯に白くなつて外は薄明くなつて居る。厩の側には落葉が堆く積んであつて其上にも雪がさら/\と微かな音をさせて白く積りつゝある。馬は人の近づいたのを見てがさ/\と敷き込んである落葉を踏みつけながらフヽフヽと懷しげに鼻を鳴らして馬塞《ませ》棒から首を出して吊つてある飼料《かひば》桶を鼻づらでがた/\と動かして居る。お袋は四つ又の後から出て
「どうぞ惡く思はねえでおくんなせえ。本當にいつでもあゝだから困んだよ」
「思はねえにもなんにも、ありや癖だから」
「そんぢやえゝがなあ」
 といつてお袋は少し躊躇して
「さうとあの兼は煩
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