の手切が出るといふ捌きになる。手切の多少で二晩や三晩はごた/\で過る。それでも古來の習慣で此の變則な黄金の威力は大抵の紛擾を解決せしめることが出來る。それが兼次とおすがの間はこんな庖丁で南瓜を割る位な手ごたへでは濟まぬ強い關係が結ばれたのである。然し此の時はまだおすがの家の傭人より外には二人の間を知るものがなかつた。暫時にして若い衆の間にそれが響いておすがを狙ふ者はなくなつた。やがて波動の如く其が村一杯に擴がつた。それでもこんなことは特別の事件が惹き起されなければ人の注意に値せぬのが一般の状態である。此の如くにして幾日は過ぎた。
或早朝のことである。時候はまだ寒さがぬけぬ頃だ。兼次は深い心配な顏で綽名が四《よ》つ又《また》で通つて居る男の所へ來た。四つ又は豚の仲買をして小才が利くので豚での儲は隨分大きい。あれで博奕が好きでなければ身上《しんしやう》が延びるのだと評判されて居る。兼次の親爺と殊の外別懇である。
「兼ら何だえこんなに早く」
と四つ又は聞いた。
「おらちつと頼みたくつて來たんだ。おら「ツアヽ」は短氣だから打つ殺されつかも知んねえ」
「なにして又打つ殺されるやうなことに成つたんだ」
「ゆんべ遊びに出て褞袍なくしつちやたんだ。おすがら内の土藏ん所《と》け置いたの今朝盜まつたんだか何んだかねえんだ。それからおらうちへ歸れねえ」
「なんだそんなことかおれが謝罪つてやつから待つてろ」
四つ又は兼次の家へ行つた。お袋は竈に木の葉を焚いて居る。釜が今ふう/\と吹いて居る。四つ又はすぐに厩へ行つた。さうして
「ツアヽ」おら何でもえゝからおれがいふことを聽いて貰《も》れてえんだ。
突然にかういひ出した。「ツアヽ」といふのは子が其父に對する稱呼であるが四つ又は格別の懇意である上に年齡が違ふから時としてはかういふこともあるのである。一つは戲談をいふのが好きな性質から四つ又は何時もこんな調子で兼次の親爺に對する。
「なんでえ朝ツぱらから」
とおやぢは不審相にして半はいつもの戲談でもいはれるやうに微笑しながらいつた。
「ツアヽに打つ殺されつかも知んねえて心配してんだから謝罪りに來たんだ。なんでもかんでも聽いてもらあなくつちやなんねえんだよ」
「解らねえなひどく」
「いやわかつてもわからねえでも世間態もよくねえんだ。實は兼次がことだがおらぢへ來て……」
「あの野郎奴ほんとに夜遊ばかりしてけつかつて」
「さう「ツアヽ」等怒つからしやうがねえ。ゆんべ褞袍|盜《と》られつちやつたといふんだがな。人のうちへ忍び込んでどうしたのかうしたのつて人聞きもよくねえ噺だからまあ餘り騷がねえ方がえゝんだ。褞袍の一枚位仕方あんめえ。此れまでそんなことあつたんぢやなし、いふこと聽いたらよかんべえ」
「そんぢや任せべえ。兼こと連れて來てくろ」
此れで褞袍の一件は濟んだ。其褞袍は其後盜んだ奴が元の所へ捨てゝ置いたので再び兼次の手にもどつた。兼次はそれを引被つて依然としておすがの許へ通つて居た。
三
暑さが漸く催して此から百姓の書入時といふ茶摘の頃までは何の噂もなかつた。春も八十八夜となつて草木のやはらかな緑が四方を飾るやうになるとみじめな姿で顧みられなかつた畑のへりの茶の木のめぐりも赤い襷の女共が笑ひ興じて俄かに賑かになる。さあ焙爐《ほいろ》の糊をかくのだといふうちに茶の葉が延び過ぎるといふ騷ぎである。兼次の家でも茶の葉が強くなつて、もう一日捨てゝおいたらとてもよりつからぬといふので隣近所と「イヒドリ」をして兎にも角にも一日に摘みあげる手筈をした。親爺は朝から焙爐へかゝつて居る。「イヒドリ」といふのは手間の交換でそつちからこつちへ一日仕事に來ればこつちからも一日仕事に行くことである。其頃兼次の家では婆さんが長らく老病に罹つて居た。丁度其日は藥がなくなつたといふので忙しい仲ではあるが鬼怒川を越えて一里ばかりさきの醫者の所まで行かねばならぬことになつた。親爺は毎日蒸し暑い焙爐の前で働いたので幾分ならずもう體が疲れて居る。焙爐を兼次に任せて骨休めながら一寸行つて來ようと思つたのであつたが兼次がいきなり
「ツアヽおれ藥貰ひに行つて來べえ」
とやつたのでそれでも自分が行くとはいはれぬので澁々と兼次を出してやつた。街道は岡を越えて行く。畑には麥の穗が一杯に出揃つて快げに戰《そよ》いて居る。菜の花がところ/\に麥畑から拔け出してさいて居る。畑の境の茶のうね/\には白い菅笠がならんで麥の穗の上にふわ/\と動いて居る。そこからは幽かな唄の聲が麥の穗末のやはらかな毛から毛を傳はつて來る。空からも土からもむづ/\と暖いさうして暑い氣が蒸し/\て遠きあたりはぼんやりと霞んで居る。若い者の心はもうそわ/\して落ちつかない。兼次は急いで行つて來た。然し歸りには此岡の畑は空しく通過することが出來なかつた。おすがゞ五六人連で茶摘をして居る所へ引つ掛つてしまつたからである。女達は一畝《ひとうね》の茶の木を向合ひになつて手先せはしく摘んで居る。爪先の音がぷり/\と小刻に刻んで聞える。兼次は揶揄《からか》はれながら自分も茶を摘んで乘氣になつて騷いで居る。
「兼ツつあんはおすがさんげばかし贔屓しねえでおら方へも來たらよかつぺなア」
といつたのはおすがの向うに居た女である。
「ほんとだおいとさん、可笑しかつぺなア」
少し離れた方からも聲がした。
「そんぢや行くべえ」
と兼次はおいとの方へ茶の木を押し分けて行つた。
「やだよう、兼ツつあん、構アねえこんなに土だらけにして」
と泣聲を出したのはおいとの側に下枝を摘んで居た一番小さな子であつた。兼次が其子の籠へ土足を蹈込んだのである。
「駄目だよ、陽氣のせゐだよ、誰だかはどうかしてんだからなア、おいとさん」
又さつきの少し離れた方から聲がした。此は稍年増なお安であつた。
「おらげもすけたらよかつぺなア兼ツあん、摘んですけなけりや話してやつからえゝよ」
とお安は又からかふ。兼次はお安の方へ行く。
「あらまあ、兼ツつあんはこんなに小麥踏ンぢやして怒られべえな」
おいとがこんどは苦情を持ち出す。茶の木に添うては小麥の畑がある。小麥と交ざし作りの豌豆が小麥の莖にからみながら立ちあがつてしほらしい花をびつしりとつけて居る。
「そんなに摘みえゝとこばかし摘んで兼ツつあんはやだよおら、頼まねえよ」
お安がつゞいて苦情を持ち出す。兼次はお安の肩を叩く。
「おゝひでえまあ、おれことぶつ飛ばしたんだよ、誰さんことかはぶたねえんだんべえな」
「さうだんべえなァアハヽヽヽ」
みんなが一度に笑出す。おすが許りは默つて居る。こんなことで兼次は散々に暇どつた。空には雲雀が交るがはる鳴いて居る。おやぢが叱る急げ/\といふやうに喉が裂ける程鳴いて居る。それでも兼次は頓着なしに指の先の青くなるまで茶を摘んで居た。漸く氣がついた時に一散走りに走りつづけて家に歸つた。幾ら駈けても後れた時間の取り返しはつかぬ。兼次の姿が見えると親爺は
「何してけつかつた、ぶつ殺されんな」
と怒鳴つて棒を持つて飛び出した。兼次は青くなつて逃げた。若いだけに足が達者である。親爺が門へ出た時にはもう前の櫟林へ姿は隱れてしまつた。親爺は焙爐の茶が焦げつくので何處までも追ひつめる譯には行かなかつた。兼次が藥貰ひに出た跡で手に餘る茶の葉をいぢつて居たのであるが強くなつた葉はいくら荒筵の上で押し揉んでも容易によりつからぬ。焙爐の火力を強くして只がさ/\な茶を乾かした。疲勞は其癇癪を促した上に焙爐の蒸し暑さは一層親爺の腹をむか/\させたのである。隣近所の二三人が出て漸く兼次を見つけた。さうして例のやうに四つ又へ詫を頼んだ。四つ又はぶらりとやつて來た。
「ツア、獨で太儀《こは》かつぺ」
「こはえな」
「うんこはえ筈だ、つまんねえ料簡《れうけん》出すから」
「何よ又そんなことゆつて」
「なにつて兼ことぶつころすなんて騷いてんぢやねえか」
「此忙しいのにあんまりのさくさして居やがつて小世話燒けたからよ」
「のさくさしたつて「ツアヽ」がにや分んめえ。先生がほかさ行つて居なかつたんで待つてたんだつて云ふんだぞ。「ツアヽ」行つたつて先生が居なくつちや駄目だんべ。それも聞きもしねえでぶち殺すなんてそんな短氣出すもんぢやねえよ」
お袋は晝餐の菜《さい》の油味噌の豆を熬つて居たが皿へ其豆を入れて四つ又へ出した。さうして
「本當におらぢの「ツアヽ」は短氣なんだから」
と獨言のやうにいつた。
「えゝからわツら知りもしねえ癖に」
とおやぢは又かアつとしてお袋を叱りつけた。
「それさうだからえかねえ。婆さまこと見ろまアおれが鹽梅《あんべい》惡いから當てつけに兼こと怒《おこ》んだ。一層おら死んだ方がえゝなんて云つてら。そんだからおれげ任せろよ。隣近所の暇つぶした丈でもつまんめえぢやねえか」
四つ又は殼竹割である。短氣なおやぢを威したり賺したりいひくるめるのは村でも此の四つ又一人なのである。
「うんそれぢや任せべえ」
といふことに成つた。
「そんだから愚圖々々しねえで何時でもおれが云ふことア聽くもんだよ」
「おめえぢや仕やうがねえへゝゝゝ」
此が笑つて收ると四つ又は兼次を連れて來た。さうするとおやぢは
「此葉揉んでくろ、兼」
といつたやうな譯でさつきの顏とは別のやうである。
四
其後いさくさはなかつたが兼次は依然としておすがのもとへ忍んだ。それではおすがの家で捨て置くまいと思ふ筈だがおすがのお袋は少し愚圖な氣のいゝ女で只娘が可愛くて兼次との間を裂かうなどゝいふ料簡《れうけん》は微塵もない。寧ろ村の評判の通り却て兼次の手引をしてやる位なものである。おすがの親爺は夜になればいつでもぐでん/\に醉拂つて前後も知らずに轉がつてしまふ。兄貴は若い嫁と裏の中二階へ昇つて寢てしまふ。それに傭人が兼次の邪魔抔はしないといふことに極つてるのだから攫《つか》まつた追はれたといふ騷ぎも聞かなかつたのである。然し村の噂が高くなると共に親類縁者の少しは小口の聞けるといふ手合が捨ておけないといふことで相談をした結果、それぢや兼次の家は財産は足らぬが貰ふといふなら一層の事おすがをやつたらよからう。嫁にとらぬといふならすつぱり手を切つて兼次をよこさぬやうに掛合はなければならぬと決した。おすがの叔父に伊作といふ博勞がある。此が又兼次の親爺と別懇だ。親爺は恐ろしい馬好で春も暖かになつて毛が拔け代つて古い毛が浮いたやうに幾らか殘つて居るのを見ると堪らなくなつて往來へ引き出しては撫でさすつて居るといふ程なのだから自然博勞の伊作が別懇になつた譯である。だから村では四つ又を除いては立入つた噺の出來るのは此の伊作である。伊作は一晩親族の惣代といふ名目で前條の掛合をした。然しそれは無效であつた。伊作は四つ又程には呑んでかゝることが出來ないのと、事件が改まつて甚だ重大であつたのとで親爺の返辭はきつぱりしたものであつた。嫁に貰ふことは首を切られても出來ないといふのである。いひ出したらもう後へは引かぬのが此の人間の性癖である。否此の家には屹度かういふ性癖の人間が生れるので此は血統である。伊作は古革の大胴亂で幾ら煙草を吸つて見ても名案は出ない。器量をさげた譯だが喧嘩にもならぬから引つ込んでしまつた。親族らは其頑固なのに激昂した。小波瀾が起らねば濟まぬやうな状態になつた。斯の如き時に好いた同士の執るべき唯一の名案は爾來幾多の男女の間に實行されて且つ廢らない。一先づ手に手をとつて出奔するといふのがそれである。少し愚圖なお袋はどうかして兼次とおすがを一緒にしたいといふ心から自分の入智惠で遁がすことにした。兼次は或晩こつそり風呂敷包を抱へ出した。それから二三日たつて兼次が見えなくなつたといふ噂が立つた。其時兼次はおすがの家の土藏の二階に隱れて居てィ袋の運ぶ握飯で凌いで居たといふのである。三日たつてから日の暮れるのを待つて二人はお袋の生家の鬼怒川の向うの或村へ行つた。表向から駈落となると双方の仲へ人が立つて纏りがつくといふの
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