周囲の山の薄紅葉を見た。山葡萄の赤みがゝつて黒ずんだ葉が布の如く山の半ばを掩ひかぶせた間にイタヤとカツラとが黄色に秀でゝて居た。自分はそこらにコカはないのかと思つた。其晩は十和田神社の別当の家へ泊つた。湖畔であつたが酷く隠気であつた。家は近頃焼けて急に新築したといつて壁もない只の板囲ひである。其板も生木を打ちつけたと見えて隙間だらけに成つて居る。冬になつたら此では迚《と》ても凌げまいと思つた。自分は思ひ出してコカがあるかと聞いた。宿の子がすぐに皿へ持つて来てくれた。自分はうまい/\と思ひながら忽《たちま》ちに喰べてしまつた。さうして噛み出した皮まで噛んで見た。皮には少し酸味を含んで丁度香竄葡萄酒を飲んだやうな味がする。翌朝自分は囲炉裏の焚火にあたりながら又コカを請求した。宿の子が此度は木の皮で編んだ袋のやうなものに入れた儘自分に出してくれた。此のうしろの樹立へ行けば幾らでもあると別当はいつた。自分は余り喰べると口中が荒れるからと注意されたけれど悉くたべて畢つた。或は此が渋の鶴爺さんのいつたシラクチの実ではあるまいかと思つたので、此の蔓は洋杖にするものではないかといふと焚火の榾《ほた》を燻べながら別当がさうだといつた。自分は何だか非常に嬉しかつた。別当の家を立つて湖畔を伝ひて秋|茱萸《ぐみ》が草のやうに茂つた汀を暫く歩いた。茱萸は漸《ようや》く成熟しかけた処で薄赤くなつたばかりであつた。樹立の間から明るい湖水を見つゝ小坂への本道だといふ薄荷越へ志した。薄荷の坂へついた時二三人連の女に逢つた。皆筒袖で空の叺《かます》を背負つて居る。四角な布を三角に折つて頬冠のやうにして頭を包んで居る。女に聞くと其布は風呂敷といふのである。山で何をするのかといふと橡の実を拾ふのだといつた。自分はふと又コカはニキヤウへ成るのだなと念をついたら此の女もさうだといつた。それで白い花がさくのだなといふと此もさうだといつた。自分は小坂へ帰つてからすぐに十和田でコカを喰べたことを書いて二三の人へ葉書を出した。此の人々へは嘗て鶴爺さんの噺をして居たのである。香竄葡萄酒のやうな味がしたと葉書へ書くことが手柄でもしたやうに自分には愉快であつた。
底本:「花の名随筆10 十月の花」作品社
1999(平成11)年9月10日第1刷発行
底本の親本:「長塚節全集 第二巻」春陽堂書店
1977(昭
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