! そこに言ひ知れぬちからの歓喜を聴くことのできる私たちの心霊を想へ!
 人々が街頭に馳駆する時、それは人々にとりて真実の生活であり、真実の争闘であらう。しかしながら私が廃寺の前に立つ時、それは私にとりて真実の生活であり得ないだらうか。そこに生のための争闘がないだらうか。
 私は争闘といふ文字を余り使ひたくない。争闘といふ言葉は私をしてむしろ消極的な、または強者に対する被征服者の弱味を聯想せしめる。私たちの内なるいのちが真実に充たされる時私たちは争闘なしに勝利者たり得る。私たちの生命が争闘また争闘によりて創造せられ、伸展せられるといふことよりも、私たちの生命が内から自然に湧き出づることによりて、或ひは新たにたえず湧き出づることによりて伸展するといふことが、より多く真実性を帯びてゐはしないか。
 私たちは到底一種の宿命から免るゝことはできない。生命の発現、生命の創造、生命の伸展すらも動かすべからざる宿命の軛につながれてゐるのではないか。いのちは伸展することが自然である、運命である。そして伸展するがままに伸展せしむるところに生命の実感が湧く。静黙の扉前に立てる私の心は、街を駆けつゝある勇ま
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