唇と、恐ろしい対照をなしていた。
人生の出来事はさまざまであるが、人間のもって生れた感情はそれよりもっと変りやすい。私は二年近く、生命力のない体に生命を注ぎこむというたった一つの目的のために、激しく働き、このために、自分から休息と健康を奪ってきた。私は、抑えても抑えきれない熱情をもってそれを願ってきたのだが、それができあがった今となっては、夢の美しさは消えてなくなり、息もつけない恐怖と嫌悪で胸がいっぱいになった。自分が創造したものの姿を見るに堪えず、私は部屋から跳び出し、心をおちつけて眠ることができないので、寝室のなかを長いあいだ歩きまわった。それまで堪えてきた激動のあとに、とうとう疲労がやってきたので、服を着たまま寝床に身を投げて、ちょっとのあいだでもそのことを忘れ去ろうと努力した。しかし、それもやくにたたず、なるほど眠りはしたが、すこぶる奇妙きてれつな夢に煩わされた。どうやら私は、エリザベートが健康にはちきれそうになってインゴルシュタットの街を歩いているところを夢に見たのだ。喜びかつ驚きながら抱擁したが、その唇に最初の接吻をすると、その唇が蒼ざめて死人の色になり、顔つきもみるみる変り、私の抱いていたのは、死んだ母のむくろになっていて、それに屍布が被せてあり、墓の蛆虫がそのフランネルのひだのなかを匍いまわっていた。怖ろしくなって夢からさめると、冷汗が額いちめんに出て、歯ががちがちと鳴り、手足がみなひきつった。と、そのとき、窓の雨戸の間からむりやり入って来たものがあるので、うすぐらい黄ばんだ月の光ですかして見ると、それは、私の造った代物、みすぼらしい怪物であった。そいつが寝台のカーテンを持ちあげ、眼――もしそれが眼と呼ばれるとしたら――で私を見すえた。口を開き、頬に皺を溜めて歯をむき出しながら、何かわけのわからねことをぶつぶつ喋った。ものを言ったのかもしれないが、私にはわからなかった。一方の手が伸びて私を抑えつけようとしたが、私は逃れて階下に跳び下り、私が住んでいた家の中庭に避難して、夜が明けるまでそこに居り、極度に興奮して歩きまわり、不幸にも自分が生命を与えた魔物のようなものが近づいてくる音ではないかと、あたりに気を配り、音という音を聞きつけてはびくびくした。
おお! あの顔を見て怖れおののかないでいられる人間かあるだろうか。木乃伊《ミイラ》が生き返ってきたって、あいつほどものすごくはない。あいつがまだできあがらないうちにはよくよく見ておいたのだが、そしてそのときだって醜くはあったのだが、筋肉と関節が動くようになってみると、ダンテさえも想像できなかったようなものになってしまった。
その夜を私は、みじめな気もちで過こした。ときどき脈搏が早く激しくなり、その鼓動が動脈の一本一本に感じられた。また、そうかとおもうと、体がだるく、極端に弱りきって、今にも地べたにくずおれそうになった。この恐怖にまじえて、私は、失望の苦渋をなめた。すなわち、あんなに長いあいだ私の食糧であり快い休息であった夢が、今では、私にとって地獄となったわけで、それほど急速に変り、それほど完全にひっくりかえったのだ!
うっとうしく湿っぽい朝がついに訪れ、私の眠れなくてずきずき痛む眼に、インゴルシュタットの教会堂と、その白い尖塔と時計が見えてきたが、それは六時を指していた。門番が私のその夜の避難所であった中庭の門を開いたので、街に出て、街を曲るたびに怪物が今にも現われはしないかと恐れながら、それを避けでもするかのように、急ぎ足で歩いていった。自分の住んでいたアパートメントには戻る気にはなれず、暗くて気もちのよくない空から降りそそぐ雨に流れそぼちながら、急ぎつづけなくてはならぬような衝動を感じた。
しばらくは、こんなぐあいにして歩きつづけ、体を動かすことで心の重荷を軽くしようと努力した。自分がどこに居るか、何をしているかもよくわからないで、街々を私は歩きまわった。私の胸は恐怖感のためにどきどきとし、自分の様子をおもいきって眺めることもできず、乱れた足どりで急ぎつづけた。
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怖れおののきながらさびしい道を
歩む者のように、一度は後を
振り向いて、歩みつづけ、
二度とはもう振り返らない。
彼は知っているからだ、その後に
怖ろしい悪鬼が迫っているのを。
――コールリッジ「老水夫行」――
[#ここで字下げ終わり]
こうして歩きつづけているうちに、私はとうとう、いろいろな乗合馬車や自家用馬車のいつも停る宿屋のむこう側に出た。どうしてだかわからないが、私がそこに立ちどまると、たちまち街のむこう端からこちらへ近づいてくる四輪馬車が眼にとまった。それがすぐそばに近づいたので、見るとスイスの辻馬車で、ちょうど私の立っているところに停ったが、扉が開くと、アンリ・クレルヴァルの姿が見え、私を見つけてさっそく跳び降りた。「やあ、フランケンシュタイン、君に会えてこんなに嬉しいことはないよ。僕が降りた瞬間にそこに君が居るなんて、なんてしあわせなことだろうね!」
クレルヴァルに会った嬉しさは譬えようもなかった。こうしてクレルヴァルを前にしてみると、父やエリザベートやあらゆるなつかしい思い出のこもる家のことが、胸中に蘇ってきた。クレルヴァルの手を握ると、私は恐怖や不幸を一瞬にして忘れてしまい、いきなり、しかも何箇月ぶりではじめて、静かなおちついた喜びを感じた。だから、あらんかぎりの真心をこめて友を歓迎し、私の大学まで歩いていった。クレルヴァルはしばらくのあいだ、私たちのおたがいの友だちのこと、インゴルシュタットへ来ることを許された自分の幸福のことを話しつづけた。「簿記という貴重な技術だけが必要な知識の全部じゃない、っていうことを、おやじに納得させるのが、どんなにむずかしかったか、君にも容易にわかるだろうよ。まったくのところ、最後までなかなか聴き容れそうもなく、僕の根気よい歎願に対してきまって答えたのは、『ウェークフィルドの牧師』([#ここから割り注]オリヴァー・ゴールドスミスの作品――訳註[#ここで割り注終わり])に出てくるオランダ人の校長のことばと同じで、『わしはギリシア語かわからんでも、年に千ポンドの収入があるし、ギリシア語なしでもたらふく食べられるよ』だってさ。けれども、僕に対する愛情のほうが、とうとう学問嫌いにうち勝って、知識の陸地を発見する航海に就くことを許してくれたんだ。」
「君に会えてとても嬉しいよ。だけど、父や弟らやエリザベートのことは、まだ聞かせてもらえないね。」
「とても達者だよ。そして幸福だよ。ただ、君がめったに手紙をよこさないのかちょっと気がかりのようだったね。その話については、おいおい君に、ちっとばかり小言をいうつもりだ。――それはそうとフランケンシュタイン」と言いさし、私の顔をつくづく眺めて続けた、「今まで言わなかったが、君はたいへんかげんがわるそうに見えるよ。ひどく痩せてるし、顔色がよくない。まるで幾晩も眠らなかったように見えるぜ。」
「たしかに図星だよ。このごろ、一つの仕事に没頭しきっていたもんだから、君にもわかったようにろくすっぽ休息を取っていないんだ。しかし、この仕事ももうすっかり終ったから、やっと自由になったと考えたい。ほんとにそう願っているのだ。」
私はひどく慄えた。前夜の出来事を考えることはもちろん、ましてそれとなく口にすることなどは、とうてい堪えられなかった。そこで急ぎ足になって、まもなくいっしょに大学に着いた。そこで、自分のアパートメントに残してきた生きたものがまだあそこに居て、生きて歩きまわるだろうと考えると、がたがた慄えが来た。私はこの怪物を見るのが怖かったが、それにもましてアンリにそれを見られるのが怖かった。だから、アンリにしばらく階段の下で待ってほしいと頼んでおいて、自分の部屋に駆けあがった。気をおちつけないうちに、手が錠前にかかっていた。私は、子どもが扉のむこう側にお化けが立って待ちぶせていると考えたときにきまってやるように、扉をむりやりにパッとあけたが、そこには何も見えなかった。こわごわ中に入ってみたが、部屋のなかはからっぽで、見るも怖ろしいお客さんは寝室にもおいでにならなかった。これほど大きなしあわせが私をみまってくれたとは、なかなか信じられなかったが、敵がほんとに退散したのを確かめたので、嬉しくなって手ばたきし、クレルヴァルのところへ駆け降りた。
二人が部屋に上って行くと、召使がさっそく朝食を持ってきたが、私は自分を抑えることができなかった。私を捉えたのは歓びだけでなく、知覚が張りきって肉をひりひりさせ、脈搏が早く打つのを感じた。私は一瞬間も同じ場所にじっとしておることができず、椅子を跳び越えたり、手をたたいたり、大声で笑ったりした。クレルヴァルは、初めのうちは、こんなに異常に元気なのは、自分がやって来たせいだと考えたが、もっと気をつけて観ているうちに、私の眼のなかにわけのわからぬ荒々しさを見た。私の大きな、手ばなしの、気の抜けた笑い声も、クレルヴァルをこわがらせ、びっくりさせた。
「ねえヴィクトル、いったいぜんたい、どうしたんだ。そんな笑いかたはおよしよ。どうも体のぐあいがわるそうだね! 何が原因でそうなったの?」
「何も訊かないで――」あの怖ろしい化けものが部屋に滑りこむのを見たような気がして、両手で眼を覆いながら私は叫んだ。「あいつ[#「あいつ」に傍点]に訊けやわかるよ。――おお、助けて! 助けて!」私は、怪物が自分をつかまえたと思いこみ、荒れ狂ってもがき、発作を起して倒れてしまった。
きのどくなのはクレルヴァルで、どんな思いがしたことやら。あれほど喜んで待っていた会合が、へんなぐあいに、こういうひどいことになったのだ。といって、その悲しみを、私はこの眼で見たわけではない。というのは、私は死んだも同然になって、長いあいだ正気にかえらなかったからだ。
これが神経的熱病の始まりで、それから数箇月も私は寝込んでしまった。そのあいだ、ずっと、アンリがひとりで介抱してくれた。あとになって知ったことだが、私の父が年とっていて長途の旅に適さないことや、私が病気だと聞いてエリザベートがどんなにかみじめな思いをすることを考え、病気がこれほどだということを、隠して悲しませないようにしておいたのだ。アンリは、自分ほど親切で気のつく看護者がありえないことを知っていて、恢復するみこみのあることを固く信じ、国もとの人たちのためにもこういう親切を尽したわけだ。
しかし、実際には、私の病気は重くて、この友だちの根気の要る限りもない心尽しがなければ、とうの昔に死んでいたことはたしかだ。自分が存在を与えた怪物の姿がいつも眼の前にあるので、私はひっきりなしにそいつのことでうわごとを言った。疑いもなく、私のことばはアンリを驚かした。初めのうちは、私の想像力が乱れたためにうわごとを言うのだと思いこんでいたが、同じことをしつこくくりかえしつづけるので、私の病気は実際に何か異常な怖るべき出来事から起きたものだと考えるようになった。
きわめて遅々として、ときどきぶりかえしては友だちを驚かせ悩ませながら、私は恢復していった。外部の物を見てはじめて喜びのようなものが感じられるにいたった時のことをおぼえているが、それは、落葉が見えなくなって、窓に翳さす木々から若芽が出てくるのに気がついたのだった。たとえようもなくすばらしい春で、この季節が私の恢複に大いにやくだってくれた。私はまた、喜びと驚愕が胸中に蘇ってくるのを感じたが、こうして私の沈欝さが消え去り、またたくまに、あの致命的な情熱に取り憑かれる前と同じように快活になった。
私は叫んだ。「ありがとうクレルヴァル、ずいぶん親切に、よくしてくれたね。この冬じゅう、君は、予定したように勉強して過ごすかわりに、僕の病室でその時間をつぶしてしまったんだね。どうしたらその償いができるだろう。僕のためにがっかりさせてほんとに申しわけもないが、かんべんしてくれた
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