ギリスへ出発しようとした。そして、帰って来たらすぐエリザベートと結婚すべきだということを了解した。父も、齢のせいで、ぐずぐずするのをたいへん嫌った。自分には、いやな仕事がすめばと自分に約束した一つの報酬――比べるもののない苦痛に対する一つの慰めがあった。それは、自分が、みじめな奴隷状態から解放されてエリザベートを求め、この娘との結婚によって過去を忘れる日の期待であった。
私はそこで旅の仕度をしたが、怖ろしくて胸さわぎのする一つの感じに絶えず悩まされた。私の畄守中は、自分の親しい者たちは敵のいることに気づかず、私の出発したことで激昂するかもしれないあいつの攻撃を妨げないのだ。しかし、あいつは私の行く所へはどこであろうとついていくと約束したのだから、イギリスまでついて来るのではなかろうか。この想像はそれだけのものとして見れば怖ろしいものであったが、親しい者の安全を思わせるものであるだけに、慰めとなった。ただ、これと反対のことが起りはしないかと考えると苦しくなった。しかし、自分の造ったものの言うことに従った全期間を通じて、私は、その瞬間瞬間の衝動の支配するのにまかせたが、現在の感じではなんとなく、あの魔物が私のあとを追って来て、家族たちがそいつの悪だくみの危険をまぬがれるという気がしてならなかった。
私が故国を離れたのは、九月の下旬であった。この旅は自分が言い出し、したがってエリザベートが賛成してくれたものであったが、エリザベートは、私が自分と別れるのがつらくて、不幸と悲歎に暮れていると考えて気を揉んだ。クレルヴァルを私の伴れにするようにしたのは、エリザベートの注意であった――それなのに男は、女の周到な注意を必要とする無数のこまかい事情には盲なものだ。エリザベートは、私に早く帰ってと言いたいのであったが、――万感こもごも胸に迫ってものが言えなくなり、黙って涙ながらの別れを告げるのだった。
私に自分を乗せて行く馬車に身を投じたが、どこへ行くのかも知らなかったし、あたりに何が起きているかにも気をつけなかった。ただ、いっしょに持っていくように、化学器具を荷造りしてくれと命じたことはおぼえているが、そのことを考えると、やりきれない苦悩を感じた。わびしい想像をめぐらしながら、私は多くの美しい雄大な光景を通り過ぎたが、眼はじっとすわっていても何も見ていなかった。私にはただ、この旅の目的地と、旅先にあるあいだはやめずに没頭しなければならない仕事のことしか考えられなかった。
四、五日ほどぼんやりと怠惰のうちに過ごして、そのあいだに何里も歩いたりしたあとで、ストラスブールに着き、そこで二日クレルヴァルを待ち合わせた。クレルヴァルはやって来た。ああ、私たち一人がなんと対照的だったことだろう! クレルヴァルは、どんな新しい場面にも敏感で、沈む太陽の美しさを見ては喜び、太陽が昇って新しい日が始まるのを見てはそれ以上に嬉しかった。風景の移り変る色や空の現象を教えたりもした。「生きているかいがあるというのは、こういうことなんだ。いま僕は、こうして生きていることを享楽するよ! だけど、フランケンシュタイン、なんだって意気銷沈して悲しんでいるんだ!」まったく私は、陰気な考えにふけり、宵の明星の沈むのも、ライン河に映える金色の日の光も見なかった。――だから、私の回顧談に耳をかたむけるよりも、多感と歓びの眼で風景を観察したクレルヴァルの日記のほうがずっとおもしろいにちがいない。みじめなあさましい私は、喜びへのあらゆる通路を閉めきる呪いに附きまとわれたのだ。
私たちはストラスブールからロッテルダムまで、ボートでライン河をくだり、そこからロンドンへ渡航することに相談を決めた。この舟旅のあいだ、私たちは、柳の多い島々を過ぎ、いくつかの美しい都会を見た。マンハイムには一日滞在し、ストラスブールを立ってから五日目にマインツに着いた。マインツから下流のラインの河筋は、ますます絵のようになってくる。絶壁のふちに立ち、高くて近よれない黒い森に囲まれた古城を、私たちはたくさん見た。このあたりのライン河は、珍らしく変化に富んだ風景を見せている。ある地点では、峨々たる山々や、その下に色濃いラインの河の流れる巨大な断崖の上に聳え立った古城が見え、また、とある山はなを曲ると、緑のなだらかな岸に繁る葡萄園や曲りくねった河や背景を占めた賑かな町々が見える。
葡萄のとりいれの時に旅行したわけで、私たちは、流れを滑るようにくだりながら、労働者の歌うのを耳にした。意気沮喪し、たえず暗欝な気もちに胸を掻きむしられる私でさえ、嬉しかった。舟の底に横になり、雲ひとつない青空を眺めていると、長いこと忘れてきた平静さに吸い込まれるようにおもわれた。こうして、私の気もちがこのようであったとすれば、誰がアンリの気もちを述べることができるだろう。アンリはお伽ばなしの国につれていかれたような気になって、人間としてめったに味わえない幸福にひたった。「僕は自分の国のいちばん美しい景色を見ている。ルツェルン湖やウリ湖にも行ったが、あそこでは、あの華やかな眺めで人の眼を慰める青々とした島々がなかったら、陰欝で悲しげな風景になりかねない黒い底知れぬ陰を投げて、雪に蔽われた山々が、ほとんど垂直に水辺に迫っていた。あの湖水があらしに波立つのを僕は見たが、そのときは、風で水の渦巻ができて、大海の竜巻とはこういうものにちがいないと思うくらいだったよ。そして、浪が怒り狂って山の麓にぶつかったが、そこでお坊さん夫妻が雪崩に押しつぶされ、今でも夜風のあいまに、二人の死に瀕した声が聞えるという話だ。僕はラ・ヴァレー山脈やペー・ド・ヴォー湖も見たことがある。しかし、この国はね、ヴィクトル、いっさいのそういうものより僕の気に入ったよ。スイスの山のほうがもっと雄大で変っているが、このすばらしい河の岸には、まだ比べになるものを見たことのない魅力がある。むこうの絶壁にさしかかっているあの城をごらんよ。あの美しい木立の葉に隠れてよく見えないけれど、島の上にもあるよ。あれあれ、労働者のむれが葡萄のあいだから出てくるところだ。あの村は山ふところに半分隠れてしまっているのだね。ねえ君、こういう所に住んでここを守っている精霊は、きっと、僕らの国の、氷河を積みあげたり、山の近よれない峯々にひそんだりしている精霊よりは、ずっと人間と調和する魂をもっているわけだね。」
クレルヴァル! 愛する友よ! 君の言ったことを記録し、誰よりも君こそ受けるに価する賞讃の辞を述べるのに、今だって私には嬉しいことだ。クレルヴァルこそ「自然の詩そのもの」に養われた人間なのだ。野性的で熱狂的なその想像力は、心の感受性によって精煉されたものだ。魂は熱烈な愛情に溢れ、またその友情は、世俗的な心をもった人なら、そんなものは想像のなかだけにあるものだと言うような、あの没我的な、ふしぎな性質のものだった。しかし、人間の同感さえ、この男の燃えるような心を満足させるには足りなかった。ほかの者ならただ感歎して見るだけの外的自然の風景を、この男は熱情をもって愛したのだ。――
[#ここから3字下げ]
轟く滝は激情のように
たえずその人に附きまとう。
高い岩も、山も、また深い暗い森も、
その色も形も、こうしてその人には嗜好だった。
与えられた思想による、あるいは
眼から見たのでもない何かの興昧による
間接的な魅力を必要としない
感情や愛情だった。
――ワーズワース「チンターン僧院」――
[#ここで字下げ終わり]
そのクレルヴァルは、いまどこにいるのだろう。このやさしい愛すべき人間は、永久に居なくなったのだろうか。ひとつの世界を形成する空想的なすばらしい観念や想像にあれほど満ちていた心、その存在が創造者の生命に依存していた心は、――あの心は、滅び去ってしまったのだろうか。いや、そうではない。あのようにすばらしくつくられた輝くばかりに美しい君の姿こそ、朽ちはててしまったが、君の精神は今でも、君の不幸な友を訪れて慰めてくれるのだ。
こんなふうに悲歎にくれるのを許してください。いまさら言ってもむだな、こういうことばは、アンリの比類ない価値に対する、ささやかな、たむけのことばでしかありませんが、それでも、あの男を思い出すと襲いかかって苦悩に溢れる私の心を慰めてくれるのです。さて、話を続けましょう。
ケルンを過ぎれば、オランダの平野に出る。そこで二人は、それから先の道を早馬で行くことに決めた。風が向い風だったし、河の流れも舟にはゆるやかすぎたからだ。
この旅も、ここまでで、美しい景色から生ずる興味を失ったが、数日後にはロッテルダムに着き、そこから海を渡ってイギリスに向った。ブリテンの白い崖をはじめて見たのは、十二月も末のある日の晴れた朝であった。テームズ河の西岸は、新しい光景をくりひろげたが、それは平坦ではあるが土地が肥えていて、ほとんどどの町にも、何か物語を思い出させるような痕跡があった。ティルベリ堡塁が見え、スペインの無敵艦隊が憶い出された。グレイヴゼンド、ウーリッヂ、グリーニッヂというような、国にいるときでさえ聞いたことのある所も見えた。おしまいには、ロンドンの無数の尖塔、あらゆるものの上に聳え立つセント・ポール寺院、イギリスの歴史のうえで有名なロンドン塔などが見えてきた。
19[#「19」は縦中横] 荒凉たる孤島で
ロンドンはさしあたりの休息地であった。私たちは、このすばらしい有名な都会に数箇月滞在することに決めた。クレルヴァルはこのころ盛名のあった才能ある人たちとの交際を望んだが、それは、私にとっては第二次的な目的であった。私は、おもに、自分の約束をはたすために必要な知識を得る手段に心を用い、自分が持ってきた、もっともすぐれた自然哲学者あての紹介状を、さっそく利用した。
この旅が、もしも、まだ研究に従っていた幸福な時代におこなわれていたら、私に言いようもない喜びを与えていたことだろう。しかし、私の存在には暗影が投げかけられていて、私はただ、自分かおそろしく深刻な関心をもっている問題についての知識を、教えてもらうために、この人たちを訪ねたにすぎなかった。仲間も私にはわずらわしかったので、ひとりきりになっていると、心を天地の眺めで満たすことができた。ただアンリの声は私を慰めてくれるので、自分を偽って、しばしの幸福を味わうことができた。しかし、しきりにつまらなそうにしてはしゃいでいる人々の顔を見ると、私の心には絶望が戻ってきた。私は、自分と自分の仲間である人間のあいだにある越えることのできない障壁を見たが、この障壁は、ウィリアムとジュスチーヌの血で封印がしてあり、この二人の名まえに結びついた出来事を考えると、私の魂は苦悶でいっぱいになった。
しかしクレルヴァルは、以前の私自身のおもかげを髣髴たらしめ、研究的で、経験や知識を得ることに熱心だった。自分の守った風習の違いが、この男にとっては教訓と楽しみの尽きることのない源泉であった。この男はまた、長いこともくろんでいた目的を追求していた。そのもくろみというのは、インドへ行くことであって、自分のもっているその国のさまざまな言語の知識、その社会についての見解が、ヨーロッパの植民と貿易の進歩を実質的に助ける手段であると信じていた。さらに進んでこの計画を実行に移すのは、イギリスに居てはじめてできることであった。クレルヴァルはしじゅう忙がしくしており、その楽しみのたった一つの邪魔は、私の悲しげながっかりした気色だった。私は、何かの心配やつらい思い出に煩わされないで、新しい人生の舞台に上ろうとしている者の、自然な歓びを妨げないために、できるだけそれを隠そうとした。自分ひとりで居るために、ほか
に約束があるからと言って、私はよく、クレルヴァルといっしょに出かけるのをことわった。私は今また、新しい創造のために必要な材料を集めはじめたが、このことは、頭にたえず落ちてくる水の一滴一滴の拷問のようなものだった。もっぱら
前へ
次へ
全40ページ中27ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
シェリー メアリー・ウォルストンクラフト の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング