した譯であります。でなければ、廢刊も實は非常な難事であつたのです。

     獄内での修業

「不意につかまつて、拘引されるならとに角、自分で進んで獄中へ行くなんて、隨分いやな氣持でせうね」
 マダムはわたしの話をさへぎつて、かう聞くのであつた。二十年前に、自分の夫、即ち現在のルクリュ翁が、懲役二十年の缺席判決を受けて、英國に脱走した時のことを思ひ出したのであらう。マダムにとつては興味が深刻なのであつた。ルクリュ翁は深い沈默で依然として傍でこれを聞くのであつた。

 いや、それほど、いやとも思ひませんでした。既に堺が行き、幸徳、西川が行つた後のことで、恐ろしくも思はず、むしろ好奇心にさそはれた方でした。それに先に私の文章で幸徳、西川の刑期を幾週間か長びかした責任も感じてゐた私は、晴ればれしい氣持で入獄しました。
 最初は十一ヶ月の豫定でありましたが、幾つもの事件が重なつてゐましたし、赤衣を着けて幾度か法廷に立ち、幸徳の直接行動論に就いての辯論も自分で思ふ存分やつたので、刑期はまた延長して十三ヶ月になりました。入獄した最初は市ヶ谷の東京監獄に一ヶ月ゐましたが、それから巣鴨監獄に移されました。
 東京監獄に入つた時、最初の二、三日間は、どうしても、飯が咽を通りませんでした。うつはは汚なし、異樣な臭氣はするし、辨當の箱を口のところに持つてゆくと嘔吐を催して、どうにも食ふ氣になれませんでした。それが四日目ぐらゐから、空腹に堪へられなくなり、三度の食事がうまくて待ちどほしくなりました。人間の生理生活には、どんなに彈力性、融通性があるものかと驚かされるのでありました。
 入獄の時は、同志山口孤劍君と一しよでした。『父母を蹴れ』といふ山口の論文が告發されて、それが二人に何ヶ月かを食はしたのです。東京監獄に行くと勿論二人は引き離されました。眞つ暗なブタ箱から、やがて夜具を抱へて獨房に入れられ、後からガチャンと鍵をかけられた瞬間の氣分といふものは、まつたく『大死一番』といふ心境、または『一切他力』の實感を、體驗させられるのでありました。窓は高くて外は見えず終日終夜面壁の修業です。
 東京監獄から巣鴨監獄に移されると、いささか格式が上つたやうに感じられました。今までは木造の小さな獨房であつたのが、今度は鐵の扉の岩窟のやうな冷たい室になりました。食物もずつと澤山に御馳走があるやうに感じられました。それから、間もなく別棟の十一監といふところに移されました。ここはまた木造で、昔の牢屋を思はせるやうな、大きな格子に圍まれた室でした。ここでは山口と隣りして居を定められたので、毎日の生活がいささかくつろいできました。さらに、暫くすると大杉が入つて來ました。山口はわたしの左室、大杉は右室に入れられました。わたし達は輕禁錮で、勞役がないので、終日讀書ができて、こんな仕合せはないと思つてゐましたら、さらに机を新調して與へられ、ペンとノートの携帶をも許可されたので、わたしは希望の光明に充たされました。そして、すぐに勉強の方針を樹て、第一に西洋の社會運動史を順序だてて檢討しようと志しました。それは、從來のわたしの心裡において、宗教と社會主義と人生觀との間に存在した、多くの不統一點、無融合點を照らすべき新しい光明が、この勉強によつて與へられるであらうと考へたからであります。
 先づイリー教授の書とカーカップの歴史を讀み、マルクスの『資本論』に喰ひつきました。面白い點も少くはないが、マルクスといふ男は、何といふ頭の惡い人間だらうと呆れました。思想がくどくて愚痴つぽいのです。勿論讀了どころか半分も讀めませんでした、そして、ジョン・レーの『現代社會主義』中のマルクス紹介で資本論をも卒業しました。マルクスに比してクロポトキンの『パンの略取』は實に愉快でした。これは少しも退屈することなく一氣に讀了することができました。しかし、この書が愉快きはまるにかかはらず、わたしはこの書に滿腔の信頼を捧げることができませんでした。その革命の道筋に於て、人生觀そのものに於て、いささか過超樂天的なところが見られました。その時わたしの出會つた思想家エドワード・カアペンターは、不思議にも、わたしの從來の一切の疑問に全的解決を與へてくれました。カアペンターの『文明、その原因と救治』及び『英國の理想』は、わたしの數年來の煩悶懊惱を一刀の下に切開してくれました。
 勿論カ翁の書が解決を與へてくれたのは、わたしの勉強の進んだ一ポイントに丁度的中した一刀が、翁によつて與へられたことを意味するのです。マルクス歴史主義、歴史必然論が、人類解放の觀點から全くナンセンスであることに氣づいた私は、カアペンターの特殊な人生史觀によつて救はれたやうに感じました。人類の社會生活の變遷とその種々相を、自我分裂の事實によつて説明し、内なる統一と外なる統一とを全く不可分のものとし、遂に宇宙的意識に復歸することに於て、無政府にして共同的にして同時に貴族的なる眞の民主生活が實現せらるるものとするカ翁の説は、從來の宗教思想も社會思想も藝術も農工業も、すべてを一つの熔爐に入れて、新しい自由の全一の世界を創造する捷徑を明示するのでありました。
 また碧巖録を讀み、論語、孟子、バイブルを讀み、古事記を反覆する間に、個人も、社會も、物質も、精神も、野蠻も、文明も、皆それぞれの面に於て『人間』といふ生命活動の一表現であつて、その自然の姿は終始一貫して『美即善』を追求してゐることが解るのでありました。カ翁の宇宙的意識といふのは、哲學者のいふ意識とは雲泥の相違があつて、それは宇宙的生命そのものであり、『人間』そのものであり、『眞善美』そのものであり、一面虚無であり、同時に實存でありました。
 巣鴨監獄内の一年間の冥想は私にとつて、よき修業になりました。

     巣鴨の幽居

「あなたのお話を聞いてゐると、監獄は樂しいところのやうに思はれて、何だか同情の念が薄らいでくる恐れがありますね」

 ええ、ある點からいへば、あすこは私達の樂園でありました。毎日三度三度の食事は供へてくれますし、社會のやうに、あくせく働かないでも、生活の心配はなし、いささかも心が散らず、勉學に專心し、終日終夜、面壁靜坐默想に耽ることもできるし、こんな贅澤な生活は、外界では到底できません。
 田中正造翁は面會に來てくれた時、立會の看守の顏を横目で見ながら『あなたは善いことをしてここにおいでになつたのだから、ここはあなたにとつて天國です。それ故、ここのお頭さんを典獄と申されます』と駄じやれて呵々大笑しました。翁に伴はれて來た二、三の友人も私も聲をあげて笑ひ合つたので、看守君も苦笑をかみ殺してゐました。
 片山潛君も面會に來てくれましたが、あの人は正造翁のやうなユーモアがなく、何となく悲痛な面持ちで餘り多くを語らず立ち去りました。
 自稱豫言者宮崎虎之助君も來てくれたらしいが、面會も許されず『健康を祈る』といふ看守長の言傳によつて、それを知りました。看守長は宮崎が白布に豫言者と書いてたすきがけにしてゐたと言ひ『あれはほんたうの豫言者かね』と問ふのでありました。『本人がさういふのですから間違ひはないでせう』とわたしがいふと、老看守長『さういへば、それまでさなあ』と意味のありさうな、またなささうな返事をして行きました。度々面會に來て、差入物や内外連絡のことを引受けて世話してくれたのは福田英子姉でありました。入獄の際、わたしの書物や荷物は悉く福田氏のところに托して置いたので、監獄當局へも福田氏のところをわたしの社會生活の本據として屆けたのであります。
 かうして在獄中もいささかのさびしさも感ぜず、大した不便も感ぜずに勉強ができました。親友逸見斧吉君は高價な洋書を丸善に注文して買つてくれ、それを福田氏に托して差入れてくれました。差入れられたノートも、積り積つて十五册になりました。それは自然に一卷の『西洋社會運動史』を構成したのであります。今日大册を成して世に出てゐるのは實にそれであります。
 この獄中生活はわたしの思想に多くの生産を與へました。第一に進化論否定の萠芽を産み、第二に古事記神話の新解釋に目標を與へました。進化論に懷疑し始めたのは、カアペンターの『文明論』とクロポトキンの『相互扶助』とを讀んだ結果であります。クロはダーヰンの進化論の一部面を強調するために『相互扶助』を書いたのであるが、不思議にも、それが私に進化論否定の動機を與へたのであります。あの書を讀むと、諸動物間に行はれる相互扶助は人間界に行はれるそれよりも一層純粹に本能的であつて有力であり、その點から言へば、少くとも今日の人間界は或る動物より遙かに退歩したものと言へるのであります。人間でも古代の人間の方が近代人よりは一層純一であり、道義的であつたと言へるのであります。それはカ翁の『自我の分裂』の歴史『人類墮落の意義』と對照して、深い考察點を指示するものであります。わたしは新世界の鐵の扉が開かれたやうな氣持で眼を見ひらきました。
 次に獄中で讀んだ書物中でわたしを喜ばしたのは『古事記』でした。わたしの第一に驚いたのは、古事記の言葉使ひが自由であること、從つて如何にも豐富であること、思想と言葉とが自由で自然で豐富であつて、その中に含まれた事實には寒帶地から熱帶地に及ぶ多くの地方色が伺はれること等これでありました。わたしの『古事記神話の新研究』の萠芽はこの時から生起したのであります。
 こんな譯で、わたしの巣鴨監獄における生活は可なり多忙でありました。思想生活に於て右にのべたやうに繁忙であつた上に、赤衣を着て屡※[#二の字点、1−2−22]裁判所に引き出されました。それはわたしにとつて一種樂しい旅行でもありました。早朝に監房から出されて、草鞋を穿かされて、徒歩で東京監獄まで送られるのです。それから他の囚徒とともに法廷に馬車で送られるのでした。一人の看守に付添はれてさわやかな外氣に觸れながら巣鴨の町を歩くのは愉快でした。朝起きて店先を掃いてゐる婦人などが何と美しいことか! 婦人といふ婦人は大てい美人に見えました。それに引きかへて、男といふ男は悉くのろまに見えました。獄中では看守は勿論のこと、囚人でも、面つきにすきまがありません。常に緊張してゐる看守達の顏ばかり見てゐるわたし達の眼に映る社會の男の面が如何にも馬鹿面に見えたのは自然なのでありませう。
 赤衣で深編笠を冠つて街を歩いてゐると、可なり人目をひくと見えて、街の人々の眼を見ひらく樣がをかしいほどでした。わたしが眼鏡をかけてゐたので『あの懲役人は眼鏡をかけてらあ』などと怒鳴る若者もありました。わたしは、そのやうな『旅行』にも手錠はかけられませんでした。特別な計らひであつたのです。教誨師などの口添があつたのではないかと思ひます。
 かうして、裁判所に出ると、少くとも往復三、四日の旅行になります。長い時は一週間ぐらゐになります。そんな時は、早く――巣鴨の――家に歸りたくなります、不思議なもので、自分の居處と定まつた『巣鴨の幽居』が慕しくなるのです、そして巣鴨の鐵門をくぐり、衣服を全部改めて古巣に入れられると『やれやれ無事に歸れてよかつた』といふ安心感に滿たされます。
 この古巣には、最初大杉と山口とが、右と左の兩室にゐたが、山口が病氣になつて病監に移され、次で大杉が怪我をしたとかで矢張り病監に行きました。私にも病監のなぞがかけられましたが、遂にあのこく寒の室に頑張り通しました。兩手の甲と耳たぼとは凍傷でひどくなり、遂には皮膚がカサぶたになつて脱落するに至りました。
 暫らくすると、今度は堺と大杉とが入つて來て、右に堺、左に大杉が据ゑられました。大杉は一旦出獄して、また新事件でやつてきたのです、數週前に東京監獄から手紙をくれた堺が、自分の姿を見せてくれたので嬉しかつたが、二人は間もなく出獄して、私はまた一人ぼつちになりました。丁度その時讀んでゐた『平家物語』の島流しの俊寛は、二人の同志がゆるされて故郷に歸る時、その船に取りすがつて海水が首に達するまで離さなかつたとい
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