ふ。出獄期の定まつてゐる私には、それほどでもないが、俊寛君に同情が寄せられました。

     赤旗事件のことども

 明治四十一年五月十九日、わたしは刑期が滿ちて巣鴨監獄の鐵門を出ました。携へ出たものの中に十五册千五百頁のノートがありました。それの大部分は後日の『西洋社會運動史』および『虚無の靈光』となつたのであります。そのうち『虚無の靈光』はわたしの獄中の瞑想の結果を綴つたもので、幼稚ではあるが信仰告白ともいふべきものでありました。然るに出獄後直ちに印刷して百頁餘りの小册子ができたのであるが、『虚無』といふ名稱が警視廳の忌諱に觸れて、製本がいまだ完成されない内に全部押收されてしまひました。これは警視廳も見當ちがひであつたことに氣がついたであらうが、諸新聞にも非難の文字が現はれました。わたしは印刷所に頼んで『破れ』を集めて辛うじて三册を製本することができましたが、その後わたしが放浪してゐる間に一部も無くなりました。原稿のノートも散逸して跡かたもなく消失した譯であります。ほんたうの虚無になつてしまひました。
 さてわたしは、多くの同志に迎へられて獄門を出ましたが、入獄の際に家を引拂つたので、一先づ福田英子姉のところに落ちつくことになりました。當時福田氏は隨分貧乏してゐましたが、さきの『新紀元』が廢刊された時に創刊した『世界婦人』といふ月刊リーフレットの編集に當らせるべく喜んで迎へられました。この『世界婦人』に、わたしの獄中で執筆したクロポトキンの『自敍傳』と『パンの略取』とを一度に發表しましたが、その増頁號は飛ぶやうに賣れて、忽ち品切れになりました。クロポトキンのまとまつた紹介として、日本における最初のものであつたためであらうと思ひます。『世界婦人』は安部磯雄氏等の後援執筆で多少良妻賢母主義のにほひがあつたところへ、突然クロの紹介が出たので、從來の讀者は餘ほど驚いたやうでした。
 わたしの出獄を聞いていち早く飛んで來てくれたのは、田中正造翁でした。懷から金五圓也を出して『お小遣ひに困るでがせうから、ハハ……』といふのでありました。入獄の際、福田氏に托して置いたわたしの衣類その他の品物も、差入れの費用のために大かたは質札に換へられてあつたほどで、わたしは心から翁の意中に感謝しました。(五圓といふ金は今では小どものアメだま一つにも價しないが、あの當時は可なりのご馳走を二、三人で食べることができました。)ことに平常無收入で無一物な田中翁が、どこからか工面して呉れたのだと思ふと、涙がこぼれるほど嬉しく感じました。
 それから間もなく、たしか上野の三宜亭でわたしの出獄歡迎會が開かれました。それは西川光次郎君一派が主催したもので、堺君一派の人々は參加しませんでした。わたしの下獄以來、西川、赤羽、片山、田添(鐵二)等の一派と、堺、幸徳、大杉、荒畑、山川等の一派とは分裂して、大ぶ惡口を言ひ合つた樣子でした。最初のうちは思想傾向の相違で分れたらしかつたが、だんだんに感情的に他を排撃し合ふやうになつたのです。ところが西川、赤羽等と、片山、田添等とは更に分裂して、今度は初めから喧嘩になつたらしく思ひます。三宜亭の歡迎會に出席した高島米峰君は『石川君の同じ友人であり同志である堺君等がこの席に列ならないのは甚だ淋しい。議論は議論として、このやうな場合には皆一堂に會して共同の友を迎へたらどうだ』と一矢を放ちました。
 こんなことがあつたので、私より一ヶ月おくれて出獄した山口義三君の歡迎會は、わたしが發起人になつて西川一派と堺一派との合同の形で開催しました。會場は神田の錦輝館の二階でありました。當時の錦輝館は政治演説會や大衆會合の場所として、東京隨一の名所でありました。伊藤痴遊の講談だの、サツマ琵琶だの、少年劍舞だのがあつて、すこぶるにぎやかでありましたが、肝腎の參會者の氣分が融和しませんでした。これは失敗したと氣がついた時は後の祭りでした、早く解散するに如かずと考へて、わたしが立つて閉會の辭と感謝の辭とを述べ始めると大杉と荒畑とは『無政府共産』『革命』等の白色文字を現した赤旗をふり、やがて私の言葉が終るや否や、高らかに革命歌を唄ひ始めました。まだ餘興が進行しつつあるとき、神田署の特高刑事は私のところに來て
「あの赤旗を卷いて貰ふ譯には行きませんか」
 と要求するのでありましたが
「張り切つてゐるのだから、とても駄目だ、すてて置きなさい」
 とわたしは答へました。
「それでは宜しいです」
 といふ刑事の言葉にはいやに力が入つてゐました。
 堺をはじめ、大杉、荒畑その他の面々はあたかも凱歌でもあげるやうに元氣一ぱいで會場を出て行きました。わたしは發起人として後始末をせねばならぬのでその事務を執つてゐると、館前の街は甚だ騷がしい。『大へんですよ』と告げてくれる人があつたので、バルコンに出て見ると、錦町の街路は、數丁の間黒山の人で一ぱいでした。これはしまつた、と強いショックを受けたが如何することもできません。
 赤旗を擁護して戰つた人々の中には若い娘さん達もゐました。山川均前夫人、大須賀里子さんは柔道の達人で、巡査を街頭に投げ飛ばしたといふ評判でした。神川松子孃も常に肩を張つて天下を横行する人でした。小暮禮子といふ當時十六、七歳の少女も加はつてゐました。小暮孃は後の銀座襲撃事件の主動者となつた黒色青年の山崎眞道を産んだ人です。
 どうしてこんな事件が勃發したか? 世間では大分|揣摩《しま》臆説した向もあつたやうでした。反動政治家山縣有朋が當時の西園寺内閣に對する反間苦肉の策だと如何にもうがつた説を立てる人もありました。ことほど左樣にこの『赤旗事件』は不可解な大騷動になりました。けれども私の見るところでは至極簡單な合戰であつたと思ひます。先に出獄した山口義三を上野驛に迎へた吾々は同驛前で警官隊と小ぜり合ひをしました。交番に引つぱられた一同志を奪還したことも先方にはくやしかつたらうが、廣小路を練つて行く間も、私に付そうて行く指揮官警部の頭を後方からステッキで擲つたものがあり――それは年少な荒畑寒村であつたと思ふ――警部の制帽は地上にとんで落ちました。警部はまつ赤な顏をしてその帽子を拾ひ上げるのでした。如何にも殘念さうに見えたが、上司からの特殊な訓令があつたものか、沈默して私の側を離れず行進するのでした。錦輝館前の赤旗事件はそれから數日後のことであり、神田署は五十名餘りの警官を豫め伏せておいたのです。前後の關係はすぐにうなづけるでありませう。

     再度の入獄

 赤旗事件が勃發してから間もなく幸徳は上京したと思ひます。バルセローナでフランシスコ・フェレルが死刑になつた時(明治四十二年十月)記念のあつまりでも開きたいと思つて、幸徳のところに相談に行つたとき、幸徳は新宿驛にちかい新町二丁目に居をかまへてゐました。上京當時は巣鴨の方にゐたのであるが、最近新町に移轉してきたのです。門前には常に五、六名の警官が立番してゐるので、フェレル記念會を開いても動きがとれないであらう、といふのでやめになりました。それに當時幸徳は管野幽月と同棲してゐたので工合がわるかつたのかも知れません。幸徳は殆んど一人で『自由思想』といふ新聞型の月刊ものを出してゐましたが、あまり長くはつづかなかつたやうです。管野の問題で、だいぶ非難があり、青年たちが幸徳からはなれるといふことを聞いたので、わたしは、それについて文を書かうと思ひ立ちましたが、幸徳が、かへつてめいわくらしく見えたのでやめました。
 わたしは巣鴨獄中で書いた『西洋社會運動史』のノートを整理清書することに精力を集中し、四十二年二月(一九〇九年)には、やうやく大體でき上つたので、どこかで出版したいと思ひ、いろいろの人に頼んでみたが結局だめでした。福田徳三君、河上肇君といふやうな連中も紹介の勞をとつてくれたのですが、本やといふ本やは、身ぶるひして、いやがつた樣子です。大町桂月氏は原稿を見て非常に感激した樣子で、博文館の大橋に談じてみませうと、原稿を持つてゆきましたが、やはりだめでした。この記念の書がやつと日のめをみたのは、大正二年元旦のことで、ある同情ある知人の出資によつて出版することができたのであります。
 さてその間に、わたしはまた、第二の筆禍事件にぶつかりました。それは『墓場』と題する『世界婦人』紙上のわたしの文章であります。どういふことを書いたのか、記憶してゐませんが、『この世は墓場のやうなものだ、生きた人間はめつたにゐないで、幽靈や惡鬼どもが、墓石の間から、ぬけでて來て到るところに陰險な惡事をはたらいてゐる』といふやうなことを書いたのではないかと思ひます。いろいろの都合で裁判をひきのばし、刑が確定していよいよ入獄となつたのは明治四十三年三月ごろであつたと思ひます。
 わたしの入獄がきまつた時、わたしは母の突然の死に會ひました。なにしろ二度目の入獄なので、母はよほど心にこたへたと見えて、『わたしはお前が惡人だとは、どうしても思へない。警察へ行つて談判してやる』と言つてくやしがつてゐました。兄がなだめて『お母さんが幾ら談判しても、三四郎の罪がゆるされるものでも、輕くなるものでもないから、それは無駄です、三四郎の仕事は後世にのこる、歴史的な大きな仕事なんだから、お母さんは自慢してよいのです』と、いつもと變つてねんごろに説くのでありました。二人の兄が刑事事件で、長く獄中に生活し、今度は三男のわたしが、二度までも入獄するといふので、老母は相當に心を惱ましたらしいのです。當時上京して、兄とともに飯田町に居を卜してゐた母は、突然腦溢血でたふれ、わたしが飛んで行つたときには、もう意識がありませんでした。朝おきて元氣に水くみなどしてゐたが、子供に『水をおくれ』と命じ、子供が水を持つていつた時は、すでに、たふれて、意識もなくなつてゐたさうです。だから、兄の家族も、だれ一人最期のお別れを言ふことができなかつたのです。これは、わたしにとつては、つらいことでした。しかし入獄中でなくて、まだしも、よかつたと諦めました。貨車一臺借りぎりで、遺骸を郷里埼玉に運び、貧しいながら兄弟相あつまつて、葬式をすますことができて、いささか心のおちつきを得ました。
 わたしの裁判の判決を聞いて、幸徳は管野とともに、新橋の富貴亭といふ普茶料理で、靜かな別離の宴を催してくれました。何ぞはからん、これが幸徳等との最後の別れであつたのです。今にして思へば、あの時の會食がいかにも淋しさうで、わたしの在獄中におこつた、大逆事件の豫感が、あの人人の間にもあつたのではなかつたか。それはただ、後日になつてのわたしの幻想かも知れません。
 市ヶ谷の東京監獄に入つてまもなく、突然浴場で内山愚童に出會したのは、まことに奇遇でありました。入浴を終つて、浴場をでようとすると、ひよつこり、そこに現はれたのが愚童ではありませんか。『やあ』『やあ』と一言かはしたばかりで、彼は浴場におしやられてしまひましたが、何の事件で彼がやつてきたのか聞きえなかつたのが殘念でした。しかも、この浴場での『やあ』『やあ』が、彼との永遠の別れのことばになつたのです。彼は何かの出版法違反事件で入つたのでせうが、そのまま幸徳等の大逆事件に連座するにいたつたのです。また東京監獄にゐる間に赤羽巖穴が面會にきて、これから旅にでるとて暫しの別れをつげるのでありましたが、彼はその直後、『農民の福音』といふ小册子を出版した件で、捕へられて入獄しました。そして、この鐵網へだてた面會が彼との永遠の別れになりました。わたしはそれから間もなく、千葉監獄に護送され、そこで赤旗事件で先入してゐた堺、大杉、荒畑、山川や、別口の西川などと久しぶりで對面し、入浴と體操でいつも一しよになりました。彼等がいづれも赤ばんてんに股引の勇ましい姿をして、元氣らしく見えるのが、うらやましいほどでした。それに引きかへ、事件の性質上輕禁錮であつたので、わたしは、じよなじよなと長衣をまとうてゐたので運動も思ふにまかせず、諸君がうらやましくてなりませんでした。わたし
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