が六ヶ月の刑ををへて東京に歸つたあとに、おそらく赤羽は千葉に送られたのでありませう。暫らくすると、赤羽から千葉監獄差出しの手紙が屆きました。その後間もなく赤羽は病氣になり、看守の與へる藥も受けずに、ハンガー・ストライキをやつて遂に獄死しました。

     大逆事件の餘波

 明治四十三年九月、わたくしは刑期が滿ちて千葉監獄を出ました。通信で仄かにそれと察してはゐたのであるが、大逆事件を聞いてちよつと驚きました。迎へに來てくれた渡邊政太郎君その他の人々は、わたしが意外に元氣であつたのを喜んでくれました。入獄前に亡母を葬るべく寒い夜中に貸車内の遺骸を守つて埼玉縣本庄驛まで行つたが、それが凍るやうな寒さであつたので、わたしはひどい風邪に罹りました。入獄の際も咳がはげしく、毛細氣管支炎をわづらつてゐたので友人達は非常に氣づかつて迎へてくれたのでした。その病氣はまだ全治したわけではないが、兎も角も元氣で出獄し得たのは吾も人もうれしかつたのです。
 出獄すると間もなく、家宅搜索がやつてきました。幸徳等の大逆事件に關連した取り調べであつたのです。手紙その他の書類を車に載せて持つて行き、同時に私も警視廳に引つぱられました。その搜索の際でした。判事か檢事か知らないが若い男が、わたしの大切にしまつて置いた澄子さんの寫眞と手紙とを探し出し、わたしの顏とその寫眞と手紙とを幾度も見かへすのです。神聖なものを汚がされたやうに感じたので、わたしはいささか怒氣を帶びましたが、若ものはそれに氣づいたと見えてていねいに元どほりたたんで包みました。
 警視廳における警戒はかつて經驗したことのない嚴重さでありました。その夜は留置所ではなくて大廣間に刑事二人がわたしの寢床の前後につきそうて不眠看守を續けるのでした。押收書類は徹夜で調べたのでせう。翌朝は早くから訊問を受けました。訊問の中心は皇室に對するわたしの考へを質すにありました。長い訊問應答においてわたしの述べた大體の意見は次のやうなものでした。
「學校の國際法の講義であなたがたも論究したことであらうが、將來世界が一つになる時、それを共和制に統一するか、君主制を以てするか、といふことが問題になるであらう。さうなれば日本の國體などは問題でなくなります。ではさしあたり、皇室に對して如何なる態度をとるか。わたしは暴力沙汰を排斥する、それは決して效果がないからである」
 こんな要領の答をすると、檢事は一通の手紙を出してわたしに示すのでした。それは木下尚江が赤羽巖穴に送つたもので、わたしの留守中に赤羽が預けて置いた行李の中から見出されたものでありました。その手紙の要旨は
「先日石川が來て、今度入獄すれば病中の自分は必ず獄死するであらう。もし死んだら遺骸を引き取つて、二重橋外に晒してくれ、と言つてゐた。しかし僕はそのやうなことはしないで、普通に葬つてやるつもりだ」
 といふやうなものでありました、そして檢事は
「皇室に對して激しい敵意を持つてゐるやうであるがどうか」
 と、つめ寄つてくるのでありました。わたしはハッと驚きました。何しろ大逆事件の際であるし、また幸徳の家には屡※[#二の字点、1−2−22]出入してゐたので、事件に卷きこまれはせぬかと恐れたのです。
「何しろ天皇の名において刑の宣告が言ひわたされるのだから、わたしが木下にそのやうなことを計つたとすれば、それは自然の感情の發露でありませう」
 とわたしは答へました、そして更に加へました。
「昨日わたしのところで押收なされた『虚無の靈光』の中に、マルクス主義や無政府主義についてのわたしの意見が書いてあるから、それを讀んでいただきたい」
 この小書の中に次のやうなことが書いてありました。
「マルクスの歴史主義革命論も、クロポトキンの理想主義的革命論も、ともに自由解放の運動としては一種の空想である。歴史過程に沿うて強權を以て社會政策を行つても解放にはならない。また單に暴力革命によつて自由平等の理想社會を打開しようとしても、それは不可能だ」
 こんな文句のあるページを開いて檢事に示すと、彼は納得したらしく、訊問を止めて世間話にうつり
「昨夜から御苦勞でした。何かお辨當を取るから喰べて下さい」
 と、それにて放免になつたらしい。お辨當など喰べずに早く歸らうとも思つたが、晝食時を少し過ぎたので出された『うなどん』を食うて、心も落ちついて歸途につきました。前夜もその朝も『天どん』の御馳走であつたが、心がおちつかないので、あまりうまくなかつたが、最後の『うなどん』ですつかり元氣になりました。
 歸宅すると皆が非常によろこんでくれました。都下の新聞などもわたしの拘引を書きたてたほどですから、友人達も少し心配になつたのでせう。當時すでに千葉から歸つてゐた堺ははがきをよこして、見舞に行きたいと思ふが、こんな際だからおとなしく引つこんでゐると書いてきました。アメリカの新聞は幸徳の事件に連座するものとして、わたしの拘引を報じ、福田氏の寫眞まで掲げて記事をにぎはせました。それは平民社時代に日本に來てゐたフライシュマンといふ男が書いたものでありませう。當時アメリカにゐた前田河廣一郎君から、その新聞を送つてくれたのであります。
 明治四十四年一月二十四日の朝、社會主義仲間の名物男齋藤兼次郎君があたふたとやつて來ました。朝から何の用ですか、と尋ねると、上氣して赤い顏した齋藤君は
「やられてゐるさうです」
 といふ。
「何がです?」
「いちがやで!」
「ああ! ほんとですか?」
 わたしは、ぐつと胸がつまつてきました。
「たうとうやるか。とにかく堺のところに行きませう。先に行つて下さい。わたしは後から行きますから」
 實を言ふとわたしも一しよに行きたかつたのですが、小心なわたしは胸がせまつて、動きがとれなくなつたのです。何とかして落ちつきたいと考へて、飯を食つてみようと試みたが、どうしても咽を通りません。お茶をかけて漸く一ぱいの飯を呑みこみましたが、不思議にも少し平靜になつたので、堺家に行きました。氣の小さい自分を省みて、少し恥かしい思ひであつたが、行つて見ると皆が興奮してゐるので、自分ばかりではないとやや安心しました。
 幸徳等の遺骸を受取つて落合火葬場に送つたのはその翌日でした。十二名が死刑、他の十二名は刑一等を減じられて無期懲役になつたのです。その無期刑者のうち、坂本清馬君の所持品が私に宅下げになつたので、監獄に受取りに行きました。その時、いろいろの手續に沒頭してゐる間に、坂本君に對する減刑言渡書が紛失しました。驚いて諸方を探してゐると松崎天民といふ新聞記者が風呂敷包の中からそつと引きぬいて書き寫してゐました。恐しい奴だと思つたが怒りもされず、寫眞にとるなら貸してあげるから、用のすみ次第、すぐ返しなさい、といふと喜んで持つて行きました。

     生活の逼塞

 幸徳は死刑になる直前に端書をよこして支那の同志張繼の所在を問うて來ました。わたしはすぐに支那革命黨の本部である民報社に行つて、それを問ひましたが、張繼はその時歸國してゐたらしかつた。民報社には、その時、章炳麟や汪兆銘や何天炯等がゐましたが、章は幸徳に手紙をあげたいが、屆けられるだらうかと問ひ、わたしが送つてあげると答へましたので、すぐに半紙に細字で慰問の手紙を書きました。わたしはすぐに張繼に關する返事とともにそれを幸徳に送るつもりでしたが、つひに間にあはず、幸徳は刑死してしまひました。
 章炳麟は支那學の大家で、滿洲、朝鮮排撃の急先鋒として、つとに光復會を起した人であります。呉稚暉だの蔡元培だのといふ、さうさうたる人物がその門下から出てゐます。呉、蔡兩氏は無政府主義的理想家としてともに支那青年層に多大の感化力を持つに至りました。これ等の人々の先輩である章炳麟は當時『民報』の主筆として故國の革命を鼓吹してゐましたが、その『民報』が告發せられて東京地方裁判所の法廷に被告として立つことになりました。わたしはそれに辯護士を紹介してあげた關係から、付添人の格で法廷に出席しました。黄興や宋教仁や汪兆銘もそのとき一しよに行きました。法廷が開かれると一人の辯護士が章氏は精神異常者であるから精神鑑定をしてもらひたいと申請したので、わたしはその辯護士(それはわたしの紹介した人ではなかつた)に抗議し、章氏は偉大な學者であり、その性格や素行に常軌を逸するところがあつても、決して精神異常者ではない、いまの申請はとりさげて下さい、といふとその人はその申請をとり下げると同時に退廷してしまひました。怒つたのです。法廷が終つて、黄興、宋教仁、章炳麟とわたしと、四人で日比谷公園の松本亭で午餐をともにした時、黄興は言ひました。
「章さんは少々精神異常者というてもよろしい、辯護士さん氣の毒なこといたしました」
 さすがに黄さんは人間が大きいなと思ひました。この裁判事件は、わたしが巣鴨監獄を出て間もない時分のことであつたと思ひます。

 さて、大逆事件があつて以來、わたしどもの生活の道は八方ふさがりになりました。進退まつたく谷まりました。わづかに内密の代筆や飜譯で口を糊するに過ぎませんでした。刑事二人が晝も夜も家居の時も、外出の時も、常にわたしどもに離れず警戒を續けるので、知人を訪問することも遠慮せねばならなくなりました。この時わたしに屡※[#二の字点、1−2−22]代筆の仕事を與へてくれたのは辯護士花井卓藏氏でありました。花井のところには、わたしは十五、六歳の時から出入し、同博士の長男節雄君が死んだときには、香爐を持つてその棺を送つたほどでしたが、この生活難に際しても隨分世話になりました。かつて木下尚江が發行するところの『野人語』に、わたしは花井邸訪問の一齣を次のやうに書いてゐます。
「この堂々たる訪客(堺利彦、野依秀市兩君)の中に、十年着ふるしたるハゲがすりの、この夏一度も洗濯せざる單衣をまとへる予の、いかにみすぼらしく見えしよ。加ふるに予は昨年入獄の際より呼吸器に微恙を得て、やつれし小躯を湘東の一漁村に養ふの身の上である。二十年舊知の花井博士の眼にはこの光景が如何に映じたであらうか。
 堺、野依の兩君は所用を濟ませて辭し去つた。暫くして予もまた所用をすませて當に座を立たうとした。その時花井氏は聲を懸けて
『ちよつと……』
 といふ。何時になく沈んだ聲である。
『失敬だけど、はなはだ失敬だけれど、着物を一枚あげたいが、着てくれますか……』
 予は子路のやうな豪傑ではないが、さりとて衣服の粗末なるを恥ぢらふほどに世俗的でもない。たゞこの頃中から種々なる無理な無心を申し出でてたびたび迷惑をかけた揚句に、この優しい言葉に接して、俄かに心臟の血がワクワクするのを覺えた。
『えゝ、ありがたう』
 と予が答へるのを聞いて、花井氏は、すたすたとドアを排して出ていつた。すぐに歸つて來た。新聞紙にくるんだ物を小脇にかゝへては入つて來た。
『失敬なやうだけれど、君と僕との間だから、惡るく思うて呉れたまふな』
『いえ、どう致しまして』
『僕がちよつと着たのだから、きたなくはない』
『結構です、どうも着物のことなど少しも關はんものですから……』
『關はないのはよろしいが、あんまり、ひどいや』
 花井氏は顏をしかめてかう言ふ。その澁い底力のある聲は少しくうるんでゐる樣子であつた。
『恐縮です』
 博士自らていねいに包みなほして、カタン糸にてゆはいて呉れたのを予はいただくやうに受取つた。予は拜領の包を抱へて椅子から立つた。花井氏はまた一語を送るのである。
『早く身體を丈夫にしてね……』
 予は花井邸の玄關をそこそこに出て、ほつと一息した。平生『敞衣褞袍、興衣狐狢立、而不恥者、其申也歟』など言うて、いささか誇りにしてゐた予も、人情の不意討を喰うて不覺の涙さへ禁じ得なんだ」
 當時の私の状態がいかに哀れなものに見えたかが想像せられます。わたしに飜譯の仕事を世話してくれたり、いろいろ助力をしてくれた同郷の先輩、佐藤虎次郎氏――この人のことは前にも書いた――は或る時わたしに勸告して
「もし
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