君が暫く社會運動から遠ざかるなら洋行もできるし、歸國の上は立派な就職もできるが、考へて見ないか」
と言ひました。それは當時の文部大臣小松原英太郎の前で粕谷義三、花井卓藏兩氏立會の上で一言ちかへば、文相自ら喜んで引受けてくれるといふのでした。佐藤氏は親切心で言つてくれたのであらうが、わたしは甚だ不滿でした。
「わたしに初めて社會主義の話をしてくれたのは、あなたではありませんか、そのあなたから、その樣な勸告を受けるのは心外です」
と斷りました。佐藤氏はあきれたらしく、わたしもそれ以來、助勢を乞ふことができなくなりました。
脱出、放浪の旅へ
明治四十四年夏、わたしは呼吸器の病氣を癒すために横濱の根岸海岸に一小屋を借り、同志大和田忠太郎君のところで食事の世話になり、毎日海に入り、河童のやうな生活を續けながら、飜譯などしてゐました。『哲人カアペンター』を公けにしたのもこの時でありました。この書はわたしにとつて眞の處女作と言つてもよろしいもので、自分では可なり心力を注入したつもりであつたが、賣れませんでした。しかし、カ翁をシェフィールドのかたゐなかに訪問した記事が萬朝報にでると、この本も少し賣れ始めたやうですが、その時は既に『かず本』になつて市場に投げられた後なので出版者西村氏は大ぶ損をしたらしいです。
明治四十五年には秋山氏といふ一人の同情者が現はれて、わたしの獄中作『西洋社會運動史』の自費出版が着手されました。ところが元來この計畫は、西園寺内閣であつたので可能性がみとめられたのであつたのに、意外にも同内閣が倒れて、われわれに苦手の桂太郎が内閣を組織するに至りました。『これはいかん! 發禁は必定だ!』と思つたが、しかし、印刷も半ばでき上つたので如何ともすることができず、この上はことを極祕裡に運ぶにしかずとかんがへ、製本も年末におしつまつて出來あがるやうにして、官僚どもが年末の多忙と正月の屠蘇醉との夢中にある間に、書籍を處分することに決しました。
そこで奧付は大正元年(明治四十五年)十二月二十五日印刷、大正二年一月一日發行といふことにし、殆ど全部の書を、同志渡邊政太郎君と共に深夜、大雪の中を荷車で、製本所から直ちに某友の土藏の三階に運搬しました。また多くの同志や知友にも贈りました。それは年末三十日ごろのことであつたと思ひます。内務省檢閲課へは丁度大晦日に屆くやうに發送しました。わたしの豫想は過たず、官僚が屠蘇の醉ひからさめると同時に發禁の命令が横濱警察に來ました。警視廳は西村氏の東雲堂に書籍差押に行つたが、そこには勿論五、六册しかありません。奴等はやつきになりました。わたしのところにも一册もありません。已を得ずわたしを警察署に引つぱりました。わたしは夜具の毛布を背負つて横濱警察に行きました。
「書籍をどこへかくしたか?」
といふ、きつい訊問です。
「公然屈けいでた出版物です。何の必要があつてかくしませう」
「でもどこにも無いぢやないか?」
「もう出來てから一週間になります、大部分は支那の同志が支那に持つて行きました。今時分は船の中で黄海あたりを渡航中でせう。もう少し早くお知らせを下さればよかつたですが、外國船に積み込まれたのでどうすることも出來ません」
署長さんも今更怒つてもしかたがないと思つたか、ことやはらかに
「それでは歸つてもよろしい」
と來た。かうして、たわいなく事件は經過し去りました。この事件が因縁になつて、わたしの日本脱走が發起されるに至りました。
明治四十五年の夏、福田氏一家は東京角筈の家にゐられなくなつて、一まづわたしのところに來ることになりました。それには渡邊政太郎君が容易ならぬ骨折りで悲劇喜劇を演じながら兎も角も無事に移轉ができたのです。貧乏の結果、借金取りの包圍に會つて家財の運搬など思ひもよらぬ有り樣であつたのを渡邊君が一切引きうけて始末をつけてくれたのです。
四十五年は半ばで大正元年になりましたが、その年の大晦日に渡邊とともに出版書の始末を終つたところに、裏口の方から『石川さんこちらですか』といふ聲がかかりました。田中正造翁の聲です。飛びだして見ると翁は人力車から降りるところです。
「やれやれ見つかつてよかつた。あちこちと一時間あまりも探しましたぜ!」
二週間ほど前に海岸通りから少し高臺に移轉したために翁をまごつかせた譯です。しかし一家一族が大喜びで翁を迎へたので、翁はとても嬉しさうに、懷から十圓札を一枚だして
「これで皆さんと一しよにお正月をさせておくんなんしよ」
といふのです。われわれに對する翁の愛情の深いのには、いつも感激させられます。横濱まで來てお正月をしようといふ翁の心の中には、貧困の極にあるわれわれがこの年の瀬を如何にして越しうるか、といふ心やりもあつたのでせう。無一物の翁なればこそ、無一物のわれわれに同情が持てるのです。わたしは何時もながら眞心から翁に感激しました。
翁は元日から若いものどもにかしづかれながら、屠蘇に醉うて大元氣でした。唐紙がせん紙を翁の前に並べると、翁は一ぱいきげんで盛んに書きなぐりました。
「大雨にうたれたたかれ重荷ひくうしの轍のあとかたもなし」
「天地大野蠻」
「壯士髮冠をつく日の出酒」
「若いもの見てはうれしき今朝の春」
「餘り醉ふことはなりません屠蘇の春」
といふやうな文句は今でも記憶してゐます。翁は大はしやぎにはしやいで三日に東京の方に行きました。家の無い翁の後姿はいかにも淋しさうに見えました。
翁が去つて二、三日たつと前述の發賣禁止事件でわたしは横濱の警察に引致されました。それを聞いた支那の革命少女T君はベネジクティンの大壜を携へて來訪されました。T君は民國の第一革命を横取りした袁世凱の暗殺を企てて失敗し、危く捕へられようとした時ベルギーの領事G君に救はれ、G君に伴はれて日本に來た人です。G君はかねて二、三度わたしの家に來訪したことがあり、このG君から私のことを知つたのです。(この人のことは『爆彈の少女』[#「『爆彈の少女』」は底本では「『爆彈の少女」」]として幾度か紹介したことがあるから、ここには述べますまい。)
「あなたは、かうして、ぐづぐづしてゐると、幸徳のやうにくびられてしまひます。早くこの國から脱走しなさい。旅費はわたしが出します」
と勢こめてT君は言ふのです。この少女の情熱にほだされて、わたしの日本脱走は決せられたのです。
このことは渡邊と堺と二人に知らせたのみで、他のすべての同志には祕密でした。堺は送別のためにとて、有樂座の文藝協會演出アルト・ハイデルベルヒに招待してくれ、わたしは最初にして最後に松井須磨子を見ました。
三月一日、わたしはひそかに佛國の巨船ポール・ルカ號に乘り込みました。渡邊から特に知らされて見送つてくれた青年山本一藏は岸壁に唯一人とどまつて、いつまでも見送つてくれましたが、それが永遠の別れになりました。彼は早稻田を優秀の成績で卒業しながら、間もなく鐵道自殺を遂げました。田中翁はわたしの脱走を聞いて些か淋しさうでしたが『わたしはヨーロッパに行つて、必ずあなたの傳記を書いて、あちらの人達に知らせてやります』といふ一言をもつて、わたしは翁にお別れしました。そしてそれが永遠のお別れになりました。
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(永々紙面を汚しました「浪」は限りなくつづくのですが、一先づこれで……)
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[#地から2字上げ](昭和二十三年五月―十二月)
底本:「日本現代文學全集 32 社會主義文學集」講談社
1963(昭和38)年12月19日発行
初出:「平民新聞 第73号〜第102号」
1948(昭和23)年5月24日〜12月27日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:仙酔ゑびす
2006年11月17日作成
青空文庫作成ファイル:
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