にも喜ばしさうに破顏微笑するのであつた。そして
「それから基督教のあなたはどうなつたんです?」
 耶蘇教ぎらひのマダムはまた些か興奮するのだつた。

 わたしが萬朝報社に入つた時、同社の外廓團體として理想團といふものがありました。その中には若い辯護士達や新進の思想家などが加はつてゐましたが、何と言つても、その思想的支柱となつてゐた人は特異な信仰の持主として有名な内村鑑三氏其他二、三の萬朝報社員でありました。毎日新聞の木下尚江氏も有名なメンバーの一人でありました。屡※[#二の字点、1−2−22]理想團講演會が東京及び地方で開かれましたが、雄辯家木下氏の名は缺くことのできない看板でありました。私は社長の祕書であつた關係上、また理想團の事務も執らされました。諸方に飛んで講演會の準備工作の手傳もしました。この理想團で私は初めて公開演説をさせられて大みそをつけたことを記憶してゐます。それは四谷見附外の三河屋といふスキヤキ店の二階でした。私の前座が餘り長談議になつたので、聽衆はアクビする、私は結論に達すべく焦せるが、どうしても結びの言葉が出てこない。やつとのことで言葉を絶つて、樂屋に歸つた時は、汗びつしよりになつてゐました。
 この演説會が終つて、奧の室で黒岩社長以下牛肉のスキ燒の御馳走を食べてゐると、さきの會場には新たに多くの青年が車座になつて首を集めてゐました。それは漸く流行し始めた百人一首のカルタ會でありました。黒岩社長は、いたくその光景にうたれ、『これは面白い』の嘆聲を連發するのでありました。萬朝報がカルタ會の肝煎になつたのは、これから始まつたことであります。
 社の仕事に少し慣れた頃でした。私は社長の家に屡※[#二の字点、1−2−22]招かれました。それは黒岩社長が當時執筆中であつた『天人論』の原稿を整理淨寫する仕事の御手傳をするなどのためでありました。しかし社長は私には筆耕をさせずに何時も議論を吹つかけるのです。デカルトの『われ思ふ故にわれあり』から、カントの『實踐理性』論から、『至上命令』論に及び、議論はなかなか盡きませんでした。わたしはしばしば夜中の十二時を聞いてから車で送られて歸宿するのでありました。そんな時は、いつも角筈の福田氏の家に行くことを常としました。素人下宿の家に夜更けて歸ると厭な顏をされるので、つひさうなつたのであります。
 當時の青年は、多く哲學的な思索に耽り、人生觀上の惱みに陷る者が少くありませんでした。黒岩氏がその人生哲學『天人論』を著したことは、まことに時代精神に深く觸れるものがあつたと言へるでありませう。一高の學生の藤村操といふ青年が、日光の華嚴の瀧の巖頭に一感想文を記して、自らその瀧壺に投身した事件は、『天人論』ができた直後のことでありました。そこで黒岩社長は直ちに藤村問題をとり上げて萬朝報紙上で論じたてました。『天人論』が盛に引きあひに出されたことは勿論です。そして『天人論』は飛ぶやうに賣れました。
 萬朝報は當時の知識的青年に熱愛された新聞でありましたが、それは黒岩氏のケイ眼がよく時代青年の心機を把へた結果であつたと思ひます。私のやうな若ものをもとらへて夜を徹して論議して倦むことを知らなかつたのも、かうした底意があつたからでありませう。黒岩氏が新聞記者として非凡な人であつたことが察せられます。
 ところが、この非凡な黒岩氏の新聞社内に一大問題がぼつ發しました。それは單に一新聞社の問題といふよりは寧ろ日本の、日本民族の、否更に世界人類の運命にかかはる重大問題でありました。日露間の戰爭の危機が切迫したのであります。明治三十六年(一九〇三年)の夏には日本の國論が沸騰して猛烈な勢で對露開戰論が唱道されました。萬朝報社でも黒岩社長や主筆格の圓城寺天山氏は開戰論者でありました。これに對して客員である内村鑑三氏や社會主義の幸徳秋水、堺枯川兩氏は非戰論を主張しました。私は會議室の隣で事務を執つてゐたので、兩派の對論をしばしば聞くことが出來ました。新參の若者であつた私は、その議論に加はり得なかつたのは勿論、その議論を聞くことも遠慮がちにせざるを得ませんでした。しかし私のほのかに察するところでは、堺氏の論鉾が最も鋭かつたやうに思はれます。内村氏は以前自ら非常な難局に遭遇した際に黒岩氏の厚い援助を受けた關係があり、幸徳氏は黒岩氏と同國人であり、かつ、その文才を愛せられて特に高給を與へられてゐた關係にあり、ともに黒岩氏に對しては極めて遠慮がちでありました。退社の際なども、堺氏がぐんぐん二人を引つぱつたらしく私には感じられました。堺氏は退社の直後私にいひました、『人間は決して腕前一ぱいの給料を取るものではない。いつ扶持にはなれても何處へ行つても自力で生活できる自信を持ち得ないと弱くなつて恥をかく』。非戰論で退社する時の堺氏の意氣を追想して私は『ははーなるほど』と感じたことでした。
 幸徳、堺兩氏と内村鑑三氏とは二つの退社の辭を萬朝報第一面に掲載してこの思ひ出多かるべき新聞と別れました。それが日本の進歩的知識階級に非常な衝撃を與へたことは言ふまでもありません。それは三十六年十月十二日のことでありました。やがて十一月十五日には、堺、幸徳兩氏協力の週刊『平民新聞』が創刊されました。それがまた非常なセンセーションを日本の青年社會に興起せしめ創刊號は再版まで發行するに至りました。剛腹そのもののやうな黒岩氏も何とかして退社の人々と和解の道はないものかと考へてゐたらしく、私にもそれとなく意中を漏らしたこともありましたが『平民新聞』創刊のことを聞いて、初めて斷念したやうに見えました。私は『平民』紙創刊の議が一決すると同時にこれに入社を許され、同十一月二十九日の同紙三號に入社の辭が掲げられました。

     基督教の影響

「クリスチャンが無政府主義者で非戰運動をするなんて、をかしくはありませんか?」
 ヨーロッパの一般クリスチャンを標準にするマダムはいささか不滿と興奮とを以て私に問ひつめるのであつた。ルクリュ翁は傍から言葉を添へていふ。
「クリスチャンだからつて、一概に排斥するには及ぶまい。クリスチャンにもいろいろある」
 マダムも顏色を和げて、ほがらかに言ふ。
「さういへば、ヨーロッパでも最初はキリスト教から社會主義になつた人が澤山にあります。けれども今社會主義または無政府主義を唱へるものは、直ちにキリスト教徒から敵對されます」
 これに應じてわたしはまた語を續けた。

 わたしは、前にも言つたやうに十五、六歳の時から社會主義や無政府主義のことを教へられ、學生時代から新聞や雜誌に『ソーシャリズム』を主張した文章を寄せました。しかし、ほんたうに人類社會への獻身といふことを教へられ、全我をそれに傾倒しようとする情熱を養はれたのは全くキリスト教によつてでありました。海老名彈正氏の『新武士道』といふ説教などにはどの位感激せしめられたことでせう。この海老名氏の本郷教會からは可なり多くの進歩的な青年が輩出しました。小山東助だの吉野作造だの、内ヶ崎作三郎だの、三澤糾だのいづれも當時の進歩的若人だつたのです。わが大杉榮なども同門の逸材といふべきでありました。
 わたしは海老名氏の教會に出入する當時、別に内村先生の教へを受けるやうになりました。それはわたしが萬朝報記者になつてからのことですが、内村先生から授けられる感化はまた不思議に新しいものがありました。海老名氏の思想は進歩的、社會的でありましたが、内村氏の教義は保守的、個人的でありました。而も内村氏の薫りは藝術的であり、海老名氏の色彩は倫理的でありました。内村氏は詩人風のところがあり、海老名氏は教育家的でありました。せめて二十歳前に、このやうな先生方の指導を受けたなら、わたしはもつと仕合せであつたらうにと、どんなにか考へたことでせう。
 このやうな思想的影響を受けたわたしが唯物論的社會主義者の創立した『平民新聞』に入つたので入社當時、感激に滿ちてゐる間は何も不都合を感じなかつたが、時のたつに從つて些かの心理的摩擦を覺えることもありました。殊に幸徳氏は眞向から私の基督教を打破しようと攻撃の鋒を向けるのでありました。そして堺氏は中間にあつて、儒・佛・耶すべてがよろしいと、われわれを丸めるのでありました。
 兎も角も、わたしは幸徳、堺兩先輩の招き、といふよりは、私自ら志願して平民社に入れて貰ひました。花井氏は大いに反對して萬朝報に留まることを勸告してくれたのですが、福田氏は入社せよとすすめてくれました。かうして『平民新聞』第三號には次のやうな入社の辭が掲載されました。
     予、平民社に入る
[#地から3字上げ]旭山 石川三四郎
[#ここから1字下げ]
 予今平民社に入る、入らざるを得ざるもの存する也、何ぞや、曰く夫の主義てふものあり、夫の理想てふものあり、然りと雖ども予の自ら禁する能はざるものは啻に是れにのみに非ず、否寧ろ他に在て存する也、堺、幸徳兩先輩の心情即ち是れのみ、彼の南洲をして一寒僧と相抱きて海に投ぜしめしは是れに非ずや、彼の荊軻をして一太子の爲めに殉せしめしは是れに非ずや、徒らに理想と言ふ勿れ、主義と呼ぶ勿れ、吾は衷心天來の鼓吹を聞けり、曰く人生意氣に感ずと、
[#ここで字下げ終わり]
 まことに不思議な文章です。萬朝報の編集局長松井柏軒氏などは素晴らしい名文だと褒めてくれたのですが、今日では、私自身でさへ、別世界の人の言葉としか思へないから、他人さまはさぞ不可解に感じられるでありませう。しかし、よくよく咀嚼して見ると、耶蘇教でもなく社會主義でもない私自身のその時の心情がにじみ出てゐると思ひます。おそろしく古風な、しかも可なりにひねくれた心の持ち方が現はれてゐます。これは恐らく少年時代の古い型の先輩達から受けた感化と、有爲轉變のはげしい浪に飜弄されて來た生活環境から育成された性格でありませう。まことに自ら醜いとは思ふのですが未だにこれを脱却し得ないのです。全我を捧げて平民社に飛び込んでいつたのでありますが、このひねくれのために同志先輩とソリの合はないことも多く、殊に堺、幸徳の兩先輩を困らせたことも多かつたと思ひます。
 平民新聞の讀者にはクリスチャンが多く、平和運動に共鳴して、非常に熱心に應援してくれました。平民社發行の繪ハガキが、マルクス、クロポトキン、ベーベル、エンゲルス、トルストイの肖像を一組にしたのでも、平民新聞の思想的態度が察せられます。
 或る時、わたしは、『平民』紙上に『自由戀愛私見』といふ一小論文を出しました。夫婦生活には戀愛が至上命令である、それが消えたら直ちに離別することこそ眞の貞操だといふのでありました。多くのクリスチャンを讀者に持つてゐたので、この文章に對する讀者の非難はものすごいものでした。社内でも幸徳、西川兩君は『こんな文章を出すと讀者の志氣を弱める』とて非難しました。捨て置きがたくなつて、堺君は全ページに亙る大論文を出して解説補充してくれました。
 これと時を同じうして、私は本郷教會の日曜日の夜の傳道説教に右の論文と同じやうな演説を試みました。その日の朝海老名彈正先生の説教が『貞操論』であつたのに對して、わたしの話は正反對のものでありました。若い時には前後も左右も顧みず、非禮の行動にも氣づかず、思はぬ失敗を招くものです。いつも私の説教の後には先生が立つて握手してくれるのに、その時には、それがありませんでした。はつと氣がついた時、先生は内ヶ崎君に耳うちし、直ちに内ヶ崎君が演壇に立つて私の自由戀愛論を反ぱくするのでした。なるほど私は海老名先生の朝の説教を反ぱくしたことになつたのだ、と氣がつきました。格別わる氣があつた譯ではなく、私の個人的な強烈な要求をおさへ得なかつたためでしたが、爾來わたしは同教會と縁が切れてしまひました。

     寄せくる浪の姿

「耶蘇教徒のあなたが自由戀愛を説くなんて、をかしな譯ですが、しかし、そのために教會から破門されたことは、まことに結構ではありませんか」
 マダムは大喜びである。それは私の精神的解放だといふ
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