のである。しかし私は決して解放された譯ではなかつた。苦悶懊惱やるせなさの結果が、あの小論文となつたわけであるが、しかし私の戀愛は決して自由ではなかつた。わたしの心はただ益※[#二の字点、1−2−22]囚はれてゆくばかりであつた。わたしは語を續けた。

 フランシ(素直)を第一義とするマダムの道義觀からすれば、わたしは如何にも解放されたやうに見えるでありませうが、東洋のわれわれの心持はなかなか、さう簡單に行きません。わたしの魂を金しばりにした戀愛の苦惱は、どんな理屈でも解消しませんでした。あの『自由戀愛私見』といふ文章は、英國の社會主義者ブラッチフォードに示唆を得て、いはば自分に言ひ聞かせるやうに、また一面には欝憤を晴らすために、書いたものなのであります。わたし自身少しも自由になつては居らず、實に半狂亂の戀であつたのです。かうした激情は青年男女に通ずるところがあると見えて、本郷教會のわたしの演説が、先生方の反撃を受けたにかかはらず、二三の青年女子聽衆から熱烈な同情の手紙を貰ひました。しかし、私のなやみは、つのるばかりでありました。
 多忙を極めた平民社の仕事に携はりながら、心身ともに自分の思ふままにならず、先輩や同志諸君に對して申譯がないと感じつつもつい狂態が續くのでした。堺君には屡※[#二の字点、1−2−22]諭されました。いま社會運動の中心になつてゐる平民社の中堅であるべき君が、同志の集會や演説會に極めて稀にしか出席しないやうでは、まことに申譯なくはないか、といはれるのでした。それは有り難い友情の表はれであることを百も承知してゐながら、すなほに感謝することができないで、いつも棄てぜりふでこれに答へるのでした。當時、平民社に頻繁に出入する山路愛山であつたかと思ひますが、わたしの狂態を聞いて『それは些か犬王だね』と言つたさうです。犬王とは※[#「狂−王」、第4水準2−80−26]へんに王、即ち狂を意味するのでした。
 銀座など散歩して、二十歳前後の娘さんに行き會ふと、わたしは無意識にその娘さんに視線を奪はれて、まはれ右までして、それをじつと見おくるのでした。銀座などを行けば、その頃でも往き交ふ娘さんは數多くありました。私の散歩は多忙でした。電車に乘つても同じことでした。三錢均一(當時の電車賃)で戀をする、なんて冗談を言ひました。然し、わたしの心は寂しさに堪へられなかつたのです。わたしの腦裏にある澄子さんの姿が、行き會ふ娘さんの上に投影して、それが、わたしの魂をひつさらふのでありました。そして、一瞬の後には、その幻影は忽ち消えて、ただ寂しさのみがわたしの周圍を閉ざすのでありました。馬鹿々々しいが、仕方がなかつたのです。
 ある時は、些かながら血痰を見るに至り、そのことが平民社の客員であり、援護者の一人であるドクトル加藤時次郎氏の耳に入り、兎も角も同氏の療養所であり、別莊でもある小田原海岸の家に招かれました。若い美しい咲子夫人の懇ろな御もてなしを受けて勿體なさは身にしみるばかりでした。晩餐の時など新鮮なお肴に冷いビールを傾けて、心ゆくまで勞つて下さる絶世の佳人と差し向ひになつて、わたしの魂は、忽然他の彼女のところに飛ぶのでした。この別莊に滯在中、平生たしなむ水泳を試みようと、裸體になつて、浪うつ濱べに足を入れては見ましたが、何かしら寄せくる浪の姿の怖ろしさに戰慄して、深入りすることができませんでした。死の一歩手前にあることを無意識に感じたのであらうか、いまだに、その時の心持が、いかにも病的な心持が、忘れ得ないのであります。
 餘りにわたし個人の情哀史を物語りましたが、今かへり見ると、かうした惱みに纒はられるのも、その原因は最初の失敗から由來するものです。みな身から出た錆なのです。全我を傾けて社會運動に投じようと決心しながら、かうした事情から思ふ半分も活動し得なかつたことは今日かへり見ても殘念でたまりません。しかしまた他の一方から考へて見ると、この氣むづかしい心の状態から、わたしは自然に内省的になり思索的生活に傾いて行つたのであらうと思ひます。普通選擧の請願運動などの代表者になりながら、所謂政治家的の氣分に接すると、堪まらなく、いやになるのでした。或る時、幸徳と堺と揃つて世間話をしてゐた際に
「これから普通選擧が實施される時代も來るであらうが、その時代に最も幸福な境涯に立つものは石川君、君等だよ」
 と幸徳が唱へ、堺がそれに和するのでした。そんな言葉を聞くと矢つ張りこの人達は政治家なんだと神經的にいや氣がさすのでした。ひねくれて、いぢけた當時の私には、ものごとを神經的に判斷することしか出來ませんでした。他の人の地位に立つて、その人の意向なり去就なりを、推量することが出來ませんでした。そして自分の殼を造つてその殼の中に閉ぢこもるやうに傾いて行きました。それは、わたしの性格の弱さをも物語るものであり、その弱い性格を防護するために自然に展開してきた生活態度であつたと思はれます。
 明治三十九年に、堺利彦君が主唱で日本社會黨を組織しましたが、そして堺君自ら來訪して懇切に入黨を勸誘してくれましたが、私は遂にその時は入黨しませんでした。最初の平民社が解散して、西川光次郎、堺利彦、幸徳傳次郎等の諸者は『光』を發行し、私は安部磯雄、木下尚江の兩先輩の驥尾に付して『新紀元』を發行してゐた際であつたので、これに入黨することは兩派を融和するに好機會を與へるものと考へながら、私には入黨することが出來ませんでした。わたしは『新紀元』で『政黨は、革命主義の運動には害こそあれ、有用のものではない』『政黨は、小才子、俗物が、世話、奔走、應接の間に胡麻をするに宜しき所なり』などと論じてゐますが實は心の弱い自分の本命を貫徹するために政黨を毛ぎらひした傾きも有つたかと思ひます。

     平民社の思想

「君が内省的になつた結果、政黨の運動をきらふやうになり、やがてそれが君を無政府主義に傾かしたのであらう。面白いぢやないか?」
 ルクリュ翁は興味深げであつた。
「一たんポリチックに足を踏みこんだら、それこそ泥沼に落ちたも同じことよ。それから脱け出ることは容易でなく、その上、正直では決してうだつの揚らぬところ、あなたの戀愛病があなたを救つたのよ」
 とマダムは得意であつた。

 マダムの仰しやる通り、わたしは大病だつたのです。その病人を棄てもせずに、深い友情をもつて、引き立ててくれた平民社の先輩達には今も心から感謝せずには居れません。平民社同人の思想的態度は、今から見れば極めて素朴なもので、またロマンチックであつたに相違ないが、しかし、あの黎明期に於ける混沌の中に、高いヒューマニズムの精神に徹してゐた點は、今も忘れることのできない美しさでありました。日本に於ける社會主義、共産主義、無政府主義等の稱を宿してゐた、あの温床は可なりに健全であり、豐饒であつたと思ひます。
 日本の社會思潮の上から見ればあの平民社の生活は、汲めども、汲めども、滾々として汲み盡すことのできない清冽な泉にも喩へらるべきであります。それはあの當時に於ける思想や主義の社會的價値にも由るでせうが、しかしあの峻烈嚴酷な鬪爭の中にも、常に明朗な陽春の雰圍氣を湛へて、若い男子が集り來り、協力を惜まなかつたのは何としても平民社の中心であつた先輩達の人格の致すところであつたと思ひます。幸徳と堺とは、實に好きコンビでした。堺は強かつた。幸徳は鋭かつた。堺はまるめ、幸徳は突き刺した。幸徳は剃刀の如く、堺は櫛の如く、剃刀は鈍なるべからず、櫛は滑かに梳るを要します。平民社は良き理容所でありました。およそ彼處に出入するほどの青年男女は、それぞれの個性に於て、その容姿を整へられました。
 永井柳太郎などは、その點において、平民社の畸形兒となつて世に出た一人でせう。不肖の子とまではいへないにしても、少々できそこなつたものといへるでありませう。大杉榮だの、荒畑寒村だの、先づ平民社の手にかかつた逸材であります。藝術の方では小川芋錢、平福百穗、竹久夢二などいふ名物がみな平民社から首途したのであります。中里介山や、白柳秀湖などいふ人々が、平民社の親しい友であつたことも忘れることはできません。この他に今日なほ生存してゐたならば、立派に各※[#二の字点、1−2−22]の場面において活躍を續けてゐるであらうと思はれる人物が澤山にあります。
 平民社關係から世に出た新進の才人が多かつたと同時に、或は平民社に同情を持ち、或はこれを援護した人物の多かつたことも忘れ得ない重要事であります。西園寺公、中江兆民等の親友であつた小島龍太郎や、ドクトル加藤時次郎や、ユニテリヤン教會の佐治實然や、毎日新聞の木下尚江や、早稻田大學の安部磯雄や、いづれも皆平民社の相談役でありました。齋藤緑雨、田岡嶺雲、小泉三申、山路愛山、石川半山、斯波貞吉、杉村楚人冠、久津見蕨村などいふ人々は、屡※[#二の字点、1−2−22]平民社を訪れて、或は舌に、或は筆に、平民新聞を賑はしてくれた同情者でありました。いづれも皆錚々たる人物で平民社の背景が如何に賑やかであつたかを推想せしめるものがあります。
 平民社は今の日本劇場あたりにあつたと思ひますが、その平民社の前から神田橋まで電車が開通したのは、明治三十七年末か三十八年の初期であつたと思ひます。それまで私は飯田町から毎日徒歩で通つてゐました。最初の内は毎週一回校正のため徹夜をしましたが、慣れない仕事で骨が折れました。築地の國光社といふ印刷所から深夜まで自轉車でゲラ刷を持つて往復する小僧さんにも同情が寄せられました。しかし、だんだん人手も多くなり、校正の助力者も現はれて來て後には徹夜をするやうなことも少くなりました。普通の新聞型十頁を毎週一回出すのであるから、三、四人の手では骨の折れるのは當然でありました。
 平民社の思ひ出は盡きません。若い娘さん達も隨分多く出入しました。一々お話できないがみんな立派な人々でした。機蕨[#「機蕨」に「(マヽ)」の注記]とでも申すべきか、よくもあんなに、多數の女性が、あの鬪爭のなかに、和氣あいあいとして寄り集うたものと、感歎せずにはをられないのです。まことに豐饒な社會運動の温床であつたと言へるのでありませう。
 明治三十六年十月に創立せられたこの平民社は、三十八年秋に解散しました。幸徳は渡米することに決して居り、堺は由分社によつて獨立の仕事を創めることになつてゐたので、一先づ解散して捲土重來を期することになりました。平民社に對して外部同志の不滿もあつたやうに聞きましたが、私ども後輩にとつては唯淋しさを禁じ得ませんでした。しかるに平民社解散式の夜、先輩の木下尚江は突然わたしに呼びかけました「旭山やれよ!」。旭山とはわたしのペンネームでした。藪から棒で何のことかと驚きましたが、木下の意はキリスト教の精神に基いて社會主義の宣傳を試むべく一旗揚げよといふのでありました。平民社の解散後はどうしたら可いかと思案にくれた際ですから、私はうれしさを禁じ得ませんでした。
 その時の木下の意氣込は熱烈でした。二人で安部磯雄氏を訪問したのは、それから二、三日たつてからでした。安部氏も大へん喜んで參加を約しました。そして新しい雜誌の名稱も、安部氏の提議でニュー・エラ=新紀元=と決定しました。それからまた、二人で徳富蘆花を訪問しました。蘆花も喜んでわれわれの計畫を助けてくれることになりました。かうしてキリスト教社會主義を標榜した『新紀元』の運動は發足したのであります。新紀元社の看板は私の家に掲げましたが、その家は今の新宿驛の直ぐ近くで、西部電車がガード下をくぐつて西方に出たところの左側にありました。小さな門を奧深く入つた、藁ぶき屋根の六疊、三疊、二疊といふ小さな家でありました。前田河廣一郎君が同居するやうになつたのは、その時でありました。

     田中正造翁

『新紀元』の運動は私にとつて良い修業になりました。どんな仕事でも、心さへあれば、みな修業でありませうが、あの場合は自分が責任者になつたので、殊に自ら緊張
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