的な思索に耽り、人生觀上の惱みに陷る者が少くありませんでした。黒岩氏がその人生哲學『天人論』を著したことは、まことに時代精神に深く觸れるものがあつたと言へるでありませう。一高の學生の藤村操といふ青年が、日光の華嚴の瀧の巖頭に一感想文を記して、自らその瀧壺に投身した事件は、『天人論』ができた直後のことでありました。そこで黒岩社長は直ちに藤村問題をとり上げて萬朝報紙上で論じたてました。『天人論』が盛に引きあひに出されたことは勿論です。そして『天人論』は飛ぶやうに賣れました。
 萬朝報は當時の知識的青年に熱愛された新聞でありましたが、それは黒岩氏のケイ眼がよく時代青年の心機を把へた結果であつたと思ひます。私のやうな若ものをもとらへて夜を徹して論議して倦むことを知らなかつたのも、かうした底意があつたからでありませう。黒岩氏が新聞記者として非凡な人であつたことが察せられます。
 ところが、この非凡な黒岩氏の新聞社内に一大問題がぼつ發しました。それは單に一新聞社の問題といふよりは寧ろ日本の、日本民族の、否更に世界人類の運命にかかはる重大問題でありました。日露間の戰爭の危機が切迫したのであります。明
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