快極まるが、その時代の自分を語るには、どうしても、それをぬきにする譯にはゆかない。いやなことでも意地になつて語らねばならない。私はすべてをマダムに打ち明けて物語つた。
明治三十一年の九月に今の中央大學の前身である東京法學院に入學し、それと同時に築地の立教學校の分校である英語專修學校(神田錦町)といふのに入學して自分のおくれてゐた英語の力を急増することに努めました。素より充分の學資がないので從弟の下宿(飯田町)に同居して、私は朝から晩まで英語學校と圖書館とに暮しました。從弟の室が三疊で、そこに机を二つ並べ、本箱を置いてあるのだから、言はば、そこらの警察の留置所にゐるやうなものでありました。その下宿も所謂素人下宿といふ奴で、水戸の藩士の未亡人と老孃との三人のお婆さんが細ぼそと營んでゐたのでありました。
明治三十二年のお正月元日に、われわれはこの下宿の親戚の家に當時流行のカルタ會に招かれて行きました。それは本郷の新花町といふ粹なところでありました。みんな興に乘じて夜の更けるのを忘れ、たうとう翌朝の初荷の聲を聞きながら飯田町の下宿に歸りました。ところが、これが縁になつてその家で私を養子に
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