京に遊學させるために、母をも共に上京させ同郷の青年學徒達の食事の世話をさせましたが、漸く東京の生活に慣れた母は、下宿屋の看板を出して、より多くの人を止宿させるやうになりました。そこへ下宿したのが同郷の新歸朝者茂木虎次郎、橋本義三の兩氏で、この兩氏がやがて一戸を持つことになつたので私はその家に招かれたのです。その時、茂木氏等は土佐の板垣門下の人々と『自由新聞』といふのを創刊して人民自由のために大いに活躍し始めたのです。最初の衆議院議長中島信行といふ人を始め、江口三省、直原守次郎などいふ急進的自由主義者が屡※[#二の字点、1−2−22]來訪し、後には信州飯田事件の首謀者櫻井平吉氏も同居者となり、ほとんど毎晩、社會問題の議論が沸騰しました。江口氏は自由黨の綱領中に勞働者解放の一項を加へんことを主張して容れられず、遂に自由黨を脱退した人なのです。また自由新聞の方も、橋本(粕谷)茂木(佐藤)等と板垣派とは意見が合はず遂に腕力沙汰に及んで茂木氏はしたたか襲撃せられました。私は呼ばれて茂木氏の避難所を見舞ひましたが、それはこんぱる(金春)の藝者屋か或は待合であつたと思はれ、美しい姉さん達が幾人も付き
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