どもは一言もなく沈默を守るより他に仕方がありませんでした。
私が初めて東京に出たのは、十五歳の時でした。その時一番に驚いたのは人間の多いことでしたが、次に驚かされたのは東京灣の海面の廣大なことでした。自然界に對する知識がこのやうにあはれにも貧しかつたのは、全く當時の教育法の缺かんであつたと思ひますが、人間界のことについては可なり進んだ知識を與へられたやうに考へます。
私の父は子供達の教育には並々ならぬ注意を拂つたらしく、常に家庭教師を招いて兄達の勉強を助けました。養蠶期或は暑夏期に小學校が數週間休校の時には特に學校の先生方を聘して、私達兄弟と村童達のために特殊學校を開いてくれました。父は何かの用事があつて屡※[#二の字点、1−2−22]東京・横濱に行きましたが、置時計を買つて來て村人を驚かしたことが私の幼年のころの思ひ出にのこつてゐます。父はその頃から洋服をきることがありました。明治十八年(一八八五年)の頃だと思ひます。初めて利根川に船橋が架設せられ、本庄町(埼玉)と伊勢崎町(群馬)との街道が直通し、縣知事や郡長が馬車で巡視した時架橋者總代たる父は例の洋服で案内役をしたことを今も幽
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