社當時、たしか共産黨宣言が發禁になり、瀧野川の園遊會が禁止された時、記念のために撮影した堺・幸徳・西川・石川四人の寫眞であつた。
「知つてゐるどころか、私自身がこの中にゐる」
 と私がいふと
「それは私も豫て支那の學生達から聞いて知つてゐる。しかしそれにしても、どうして君は死刑を免れたか?」
 とたたみかけて質問する。
「幸徳の事件が勃發した時は、他の三人は皆監獄の中にゐたからあの事件には關係がなかつた」
 と答へると、また翁は直ちに
「そして君は、どんな風にして脱獄することができたか?」
 と熱心に問ひ返すのであつた。ルクリュ翁が、かう熱心に質問するのも無理ではなかつた。翁の親しかつたバクニンでも、クロポトキンでも、みな脱獄者であつた。ルクリュ翁自身が、二十年の重懲役の宣告を受けて、祖國を脱出して現に亡命生活中の人であつたのだ。
 そこで私は刑期が滿ちて正當に出獄し、大逆事件で再び捕へられたが釋放されたこと、『西洋社會運動史』は發禁になつたこと、周圍の情勢は緊迫して身動きもならぬ有樣になつた時、支那及びベルギーの友人の熱心な勸告と援助とによつて幸運にも故國を脱出することができたこと、
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