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 と『本庄村開發舊記』にあり、課役、經費が年々かかるので到底堪へられなくなつたのであります。

     勇躍、東京へ

 マダムは言葉を差はさんで言ふ。
「政治的生活の興亡盛衰の波に眼もくれずに、永遠の土の生活に誇りを持たれた、イガラシの祖先は賢くも善き模範を子孫に示したものではありませんか」

 ところが、本庄村の五十嵐太郎右衞門は、何しろ同僚中で一番廣く間口を擴げたので、課役經費は年々嵩むばかり、その上何代か續く間に段々虚榮心も高まり、自然におごりの生活に慣れるやうになつたでありませう。遂に家門を維持することができなくなり、屋敷の一部分を或は鎭守に、或は威徳院といふ寺に分讓し、更に『間口八間を譜代召遣ひ候五助に居屋敷として遣し候、相殘り候は諸方より來り候者共方へ三間々口づつ相讓り、その身渡世も致さず寶永十九年迄に田畑山林屋敷まで不殘賣拂ひ、譜代召遣ひ候家來五助方へ夫婦引取り承應三年まで扶助致し置き、兩人共病死致退轉候』(開發舊記)といふことになりました。
 此地に引移つた永祿三年(一五六〇年)から沒落の承應三年(一六五四年)までは百年近くなるが、その間に三代
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